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大岡昇平『野火』の世界

大岡作品の中から『野火』だけをピックアップし、

極限状況における人間の

葛藤と苦悩について考察しました。


『野火』における生と死について1





 『野火』における生と死について、主人公田村の意識の推移と行動をもとに考察したい。死に対する観念は、戦地に赴くと同時に存在していたものだが、死が言わば「観念ではなく映像となって近づいて」きたのは孤独な彷徨が始まってから、すなわち「川」の章からだと思われるので、それ以降の流れを追って述べていきたいと思う。
 主人公の認識過程の特徴は、多くの矛盾を内に秘めた観念論者的思考と、明晰な自己判断を可能とする唯物論者的思考が、相互に刺激しあうような形で、意識を変化させ発展させているところにある。
 「私はやがて腐り、さまざまの元素に分解するであろう。三分の二は水から成るという我々の肉体は大抵は流れ出し、この水と一緒に流れて行くであろう」「肉体はこの宇宙という大物質に溶け込んで、存在するのを止めないであろう」過度の想像によって物事を誤認するようなことがなく、実に冷静である。川の流れに添うように死を受け入れた主人公をそこに見るのであるが、行く末を透視する認識者が、さらにこう続けるのである。「私は自分が生きているため、生命に執着していると思っているが、実は私はすでに死んでいるから、それに憧れるのではあるまいか」
 肉体は死に近づきながらなおも生にしがみつく。意識が肉体に呼応して自殺を拒み、そしてついに、もう死んでいるのだから殺すには当たらない、という飛躍した論理を持ち出すのだ。
 実際には生きている自分を死んでいると言い放つのは、我執の裏返しに過ぎない。理性では割り切れない感情、生への執着が、冷静な認識者を迷妄に陥れる時、逆説的論理によってでも、精神の崩壊を妨げようとする防御スイッチが入るのだろう。もしこれを意識の倨傲と呼びうるなら、主人公はその度重なる倨傲によって自滅への道を辿ることとなる。 さらに彼は「死ぬまでの時間を思うままに過すことができるという、無意味な自由」と、死ぬことの自由を所有しているという意識の展開を見せるのだが、これらは実質的には自由と呼びうるものではまったくない。
 「〈私〉の意識展開は、死の観念に浸透された意識の解体の過程であるとともに、絶えざる後退作戦を続けながら死をおのれの支配下に置こうとする意識の倨傲な自己主張の過程である」『大岡・中原・富永』(粟津則雄)と指摘されているように、自己矛盾をより深めてゆくことになるのだ。

『野火』における生と死について2





 主人公にとって「生」とは何であったのか。
 比島の林中の小径を通った時、再び通らないのが奇異に感じられた彼は「今行うところを無限に繰り返し得る予感」としての「生命感」という考えに至る。日常においては、いつでもまた来る可能性が意識下に仮定されているため、「再び通らない」という感じを抱くことはないが、後退することのできない歩みを進めるさなかの緊迫状況にあっては、当然の感覚であった。しかし、何故ここで敢えて「奇怪」と言うのだろうか。
「あの予感が奪い去られれば、われわれが見る風景も、われわれの意識そのものも、それぞれの持続から切り離され、言わば、非時間的世界のなかにただようことになる」(『大岡・中原・富永』)
という分析をヒントに考えるならば、すべての因果関係からはみ出した人間にとっては、再び通るも通らないもないのである。彼の存在にかかわらず、世界はその動きを止めることはない。「生」の軌道と主人公の軌道は隔たった所にあり、距離感がつかめないからこそ「奇怪」なのだ。こう解釈すれば、「降路」の章の「私が現在行うことを前にやったことがあると感じるのは、それをもう一度行いたいという願望の倒錯したものではあるまいか」という一文もすんなり入ってくるのである。
 ここで改めて「生きながらにして死んでいる」主人公の状態について考えたい。
主人公の歩みは、死の空間に対する働きかけであり、異様に息苦しい空間を少しでも緩和しようという、無意識の行為でもある。また、大岡文学において、他作品にもこのような空間に対する固執が見られるのは興味深い。その代表的な作品が大岡自身が体験した『俘虜記』であり、米兵との遭遇場面である。もし仮に米兵を撃つか、米兵に撃たれるかしたならば、「恐怖を抱く人と恐怖を与える人」の緊迫関係は絶たれ、暗い予感に充ちた空間は消滅したであろう。しかし、実際には何事も起こらなかったせいで、その空間は意識下にずっと滞留し存続してしまったのである。
 「恐怖を抱く人と恐怖を与える人」、この対立関係を『野火』に当てはめてみるならば、「決定的な死を待ち受ける主人公と、死それ自体」に置き換えることができるだろう。そう考えると「すでにこの世の人ではない」という思考の有り様は、緊迫観念から逃れ、這い出してきた意識の、唯一の癒しであったと言えるのではないだろうか。

『野火』における生と死について3





 しかし、このような意識の足掻きも、十字架を見るために村へ降りて行き、殺人を犯してしまったことによって、否応なくあの生と死の狭間にある空間へと突き返されることになる。
 「この道は二度と帰ることはあるまいと思っていた道であった。その道を逆に通ることは、通らないことより、一層奇怪であった」(「銃」)
とあるように、死の観念に苛まれ、死に限りなく近づいたはずの主人公が、予期せずして再び生への道を辿る時、その空虚はますます彼の精神を崩壊させる方向へと作用するのだった。まして、再び生き延びることを強要したのが、殺人という人間の資格を失墜する行為であったことが、彼に今まで以上の重荷を強いて二重の苦しみを味わわせるのである。 そして、自由という名の下にあった死を、今度は任意としてではなく、必然として受け止めねばならなくなった。意識の倨傲によって支えられていた精神は脆くも崩れ去り、逃げ場のない状況へと追いやられてゆく。
 「私自身の任意の行為によって、一つの生命の生きる必然を奪った私にとって、今後私の生活はすべて必然の上に立たねばならないはずであった。そして私にとって、その必然とは死に向っての生活でなければならなかった」(「出現」)
もうそこには意識の倨傲の余地はなく、生きるに価しないが自らを殺すこともできない、絶対的な禁止があるのみである。
 ここでついに彼は、倨傲なる意識の崩壊と同時に、精神の純化を求めて歩み始めるのだが、そのことについては次章の「『野火』における神とは何か」で掘り下げてゆきたいと思う。


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『野火』における神とは何か1





 少年時のキリスト教体験を迷妄として捨て去り、「社会に対しては合理的、自己については快楽的な原理」に従った主人公だったが、村に聳え立つ十字架を見ることによって、これまでの生き方が大きく揺らぐのを覚える。
 「楽園」を去り、村に下りるということは、比島人に姿をさらすことでもあると承知しながら、十字架を間近で見ようとしたのは何故だったのか。
 「殺されるまでも、あの会堂に入って、生涯の最後の時に私を訪れた、一つの疑問を晴らさねばならぬ」(「夢」)
とあるように、一つの疑問、「あの快感を罪と感じた私の感情が正しいか、その感情を否定して、現世的感情の斜面に身を任せた成人の知恵が正しいか」を解決させるべく、十字架への接近を試みようとする。その接近には、敵の中に入ってゆくという危険と、宗教的象徴物の前でおのれを引き裂かれるという二つの危険が潜んでいた。
 しかし、「現世的感情の斜面に身を任せた」生きざまの終焉として死を迎えている状況下にあって、一つの真理を掴み取りたいという渇望は、抗し難い衝動でさえあったのではないだろうか。
 ここで、大岡自身のキリスト教体験での重要な記録の断片に、触れなければならないだろう。大岡は『少年』の中で笄町の教会について語っている。
 「再び信仰を持つには、いまの自分があまりにも多くの雑念を持ちすぎていることも知っているのである。あの十字架の下へ行くことは不可能なのだが、ただこの形を見ることによろこびがあるなら、それを味わうことを自分に許すことができる」
 実際には教会への接近を果たせなかった大岡が、『野火』の主人公には十字架の下まで行かせている。行為を通して自らの疑問に答えを出していないおのれへの働きかけであり、「折衷というものはあり得ない」この問いに、真正面から切り込んでいかなかったことへの後ろめたさも、そこにはあったのだろう。
 しかし、十字架に接近した結果は、主人公の想像とはあまりにもかけ離れたものであった。色褪せ、ひなびた姿で陽に照らされていた十字架は「どんな感情の色も持たぬ不毛な冷たさで、そこに光って」おり、彼の目には雑然たる物体の一つとしか映らなかったのである。

『野火』における神とは何か2





 予期に反して、彼は少しの感動も覚えなかった。そればかりか、祭壇の十字架に対して「イエスの蒼白の裸体は屍色を現わし、血は赤黒く凝固しているらしかった」(「デ・プロフンディス」)という、なまなましい写実しか見出しえず、何かが自分の中で変化していることを悟るのである。
 そんな時、彼は「デ・プロフンディス(われ深き淵より汝を呼べり)」という声を彼自身の口から聞く。それは「私」という人間存在が二つに分離し始めた徴候であった。偶然か必然か。その夜、司祭館の台所に塩を取りにやってきた比島人の女性を、銃殺してしまう主人公。女に対する言葉が「燐寸をくれ」であったことは、彼の意識の中に殺意がなかったことを示しており、殺す意志のない殺人を犯した彼は「私自身の任意の行為によって、一つの生命の生きる必然を奪った」という思いに付きまとわれる。
 殺戮が日常茶飯事である戦場においては、殺人という行為は黙認されるかも知れず、もしかしたら社会的制裁を受けずに済むかもしれなかった。しかし、そのことで却って自責の念は一層駆り立てられ、おのれが制裁者となっておのれを罰するしか、手立てはないのだという切迫した観念に支配されるようになる。一人の人間が制裁者であり、同時に罪人であるためには、その人間の精神が二分されなくてはならない。
 彼はその後、奇妙な感覚を覚えたことについて、次のように述べている。
「私は自分の動作が、誰かに見られていると思った。…証拠は、見られているという感覚を否定してからは、私の動作は任意、つまり自由の感じを失い、早くなくなったことである」(「光」)
彼は、自分の動作を見つめるものが何者なのかをすぐには認識せず、殺した女ではないかと思うが、やがて、戦友の屍を自分の食物として渇望した時、何であったかをまざまざと知ることになる。
 「新しい屍を見出すごとに私はあたりを見廻した。私は再び誰かに見られていると思った。比島の女ではあり得なかった。私は彼女を殺しただけで、喰べはしなかった」(「飢者と狂者」)
すでに人間社会からはみ出した主人公ではあったが、さらなる罪を重ねようとする時、その眼は執拗に迫ってくるのだった。

『野火』における神とは何か3





 そして、狂い死んだ将校をわが物にしようとした、まさにその時、剣を持った彼の右手首を左手が握るという、奇妙なことが起きる。
 右手は、倨傲を尽くそうとする意識であり、任意に生きようとする精神であり、取りも直さず、餓鬼道に落ちようとする彼の象徴であった。そして左手は、そのような彼を制裁する理性であり、神であったのである。 この時から、ちょうど精神がそうであったように肉体も半身に分離し、別々に動こうとする。右半身は飢え、左半身は良心に従って生きようともがく。聖性を失ったおのれの右半身を引きずり、目の前に降り立った神の中に内包されようとするのだが、切り離すことのできない右半身の罪深さから、大いなるジレンマに陥るのだった。ここで神は、漠然と抱き続けた観念としてではなく、超越者として主人公の肉体に降臨する。しかし、おのれひとりのために降り立ったとする彼の意識には、なお傲慢な影がちらついているように思われてならない。 「己れひとりのためにとは、エゴイズムに似て、それを越える。それは信仰の持つ肉感であり、エロスである」(『陰画としての神』佐藤泰正)
という佐藤氏の解釈によれば、右半身の傲慢で脆弱な精神と、信仰に伴う傲慢さは別種のものと捉えた方が良いのかもしれない。信仰にのめり込んでいけばいくほど、程度を強めてゆく傲慢さ。いわゆる狂信者と呼ばれる人たちの、カタルシスに伴う陶酔感は確かにエロティックであり、見方を変えれば、傲慢な要素が多分に含まれているように思われる。 主人公は、人肉を食して生き延びる二人の戦友との共同生活を始めたが、一人がもう一人を殺してその肉を喰らおうとした時、次のように反応する。
「まだあたたかい桜色の肉を前に、私はただ吐いていた。空の胃から黄色い液だけが出た。…私はもう人間ではない。天使である。私は神の怒りを代行しなくてはならぬ」(「転身の頌」) 殺人を犯し、知らなかったとは言え「猿の肉」を口にした男が天使とは、身の程知らずもいいところである。しかし、狂信者の理屈で考えてみれば、神と同化した左半身には微塵の穢れもないということなのだろう。

『野火』における神とは何か4





 では、普段なにげなく植物を摘み、動物を食する日常性の中に暮らす人間と、殺人を犯したとは言え、人肉食の誘惑に耐え得た主人公とでは、はたしてどちらが罪深いのだろうか。
「私はこれまで反省なく、草や木や動物を喰べていたが、それらは実は、死んだ人間よりも、喰べてはいけなかったのである。生きているからである」(「野の百合」)
 時に野の花は「喰べてもいいわよ」と彼を誘う。だが赦しは、禁忌より一層彼の精神をがんじがらめにしてしまうのだった。罪を犯した人間でも天使になれるという発想は、キリスト教における「原罪」に通じ、また親鸞上人の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機説にも結びつく考え方である。彼は罪を自覚することによっておのれを超越し、右半身の意志を左半身に服従させたのであった。しかしそのことは、彼の人間存在を支えていた精神と意識の崩壊を意味していた。 右半身とは、神と人間との決定的相違の象徴であり、人間を人間たらしめるものの象徴である。その崩壊の果てに待ち受けているのは、狂気への道、ただひとつしかない。しかし、狂っているとされる終章において、なおも明晰な判断力は失っておらず、精神の純化を遂げた相貌は、あたかも贅肉を落とし、悟りを開いた苦行僧のようであった。
日沼倫太郎はその評論『大岡昇平における神の問題』の中で、『野火』を宗教文学と見なすことに批判的姿勢を見せており、また、楠道隆の『大岡昇平〈野火〉論』では、信仰の書であると同時に背信の書であるという捉え方をしている。
 少年期の憧れであった十字架に失望する場面でもわかるように、主人公のキリスト教執着は、ここで半減している。その後、彼が神と呼んだものはキリスト教における神ではなく、人間の感情を、ひいては理性をも越えた超越者であったと捉える方が自然であろう。そういう意味で、『野火』は宗教文学というよりも、超自我とエゴイズムとの葛藤の書であると言えるのではないだろうか。


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大岡自身の戦争体験と創作1





 大岡昇平の諸作品において、過去の経験を主題とした作品は、大きく三つの系列に分類することができる。
1.幼少年期を題材とした作品系列…『幼年』、『少年』、『父』、『母』
2.青年期を左右した詩人たちの作品系列…『中原中也』、『富永太郎』
3.中年補充兵としての戦地体験に基づく作品系列…『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』
 これら三つの作品群は、相互にさまざまな形でリンクし合っている。例えば、『俘虜記』『野火』に見られる神の観念は、『少年』でのキリスト教体験を抜きに語れないものであり、また野火のイメージと『幼年』の煙突のイメージは切り離すことができないものである。 逆に、戦争体験が他作品に与えた影響としては、衰弱者としての富永太郎を描く際に、比島を彷徨し飢餓に苦しみ、マラリヤに倒れた経験が、どれだけ富永への接近を可能にしたであろうか。また、上記のような直接的影響のみならず、兵士として要求された、時々刻々の事実を見定める能力や、視点の正確さは、復員後の執筆活動の中核をなすものである。巨視的でありながら同時に微視的でもある、大岡の筆法傾向は、戦争というとてつもなく大きな歴史事件の中にあった一人の兵士としての体験によって、培われたものであると言えるだろう。  また、『武蔵野夫人』の「勉」を「復員者と形容して、その健康快復の物語を書く」と、大岡自身が述べていることからも、大岡=「勉」ではないにしろ、戦争が残した痕跡の大きさが窺える。
 これらのことから、大岡自身の戦争体験を考察することが、大岡文学の研究において、非常に重要な手がかりになると思われる。大まかな全容について、年次を追って以下に記す。
昭和十九年三月、暗号手の特殊教育を受け、六月には東部第三部隊で輸送大隊に組織、マニラに向かう。到着後第百五師団大藪大隊に配属、ミンドロ島警備を命ぜられる。大隊所在地バタンガスで西矢隊に配属。
昭和二十年一月、南方からの追撃砲撃を受け、脱出組に追随しようとしたが、マラリアで発熱のため及ばず、昏倒中のところを米軍に発見されて俘虜となった。レイテ基地俘虜病院にて二ヶ月の静養を取った後、タナウアンの一般収容所、次いでパロの新収容所で俘虜生活を送った。敗戦の報はパロで聞いている。十一月「信濃丸」で出港、十二月には復員している。

大岡自身の戦争体験と創作2





 大岡の戦争体験は、参謀の気質に左右されながら、軍の支配と抑圧の下にいた軍隊生活と、彷徨の末の名誉を失った存在としての俘虜生活とに大きく二分される。では実際に、これらの経過を通して、大岡の意識はどのように揺れ動いていたのであろうか。大岡はその著書『幼年』において、次のように述懐する。
 「私自身、物心ついた頃から渋谷道玄坂周辺に育って、代々木練兵場に向う兵隊の列や、うろうろする日曜外出の兵隊を見ているので、軍隊の忠誠と勇気について、いくら教科書で教えられようと、あまり軍人を尊敬する気になれなかった」
 この言葉から、国家に忠誠を尽くす存在としての軍人に対して、潜在的に不信の念があったことが伺える。が、それだけではなく、大岡の先入観を占めていたものとして、日仏酸素株式会社での経験から、貧しい日本の資本家の自暴自棄と、軍人の虚栄から始められた戦争という意識が色濃くあったようだ。
 祖国のために死んでいく美化された兵士としてではなく、国家の暴力の犠牲者としての兵士であるというはっきりとした自覚があり、「戦争というものがどういう原因で起ろうとも、兵隊がどんなに辛くても、吶喊の時はすべてを忘れてワーというほかはないという現実」(大岡昇平『漱石と国家意識』)として冷静に受け止めていた。
 そんな大岡の胸中には「かならずしも死ぬとは限らない」という安易さと、「いつ死ぬかわからない」といった死の観念が共存していたが、「死については既に考え尽されていた」(『俘虜記』−「捉まるまで」)と述べられているように、何度もその苦い感触を反芻している。「死の観念は絶えず戻って、生活のあらゆる瞬間に私を襲った。私は遂にいかにも死とは何者でもない、ただ確実な死を控えて今私が生きている、それが問題なのだ」(「捉まるまで」)
 これは取りも直さず、周囲に色濃くなってきた死の影への反作用でもあった。そして、自殺という選択肢を排除し、肉体の生きる意志に従って生を全うすることを是とした、大岡の姿をそこに見出すことができるのである。

大岡自身の戦争体験と創作3





 しかしながら、この冷静な認識者に恐怖の念が皆無であったわけではない。別な方角から光りを当てて見ると、恐怖に戦慄したもう一人の大岡が浮かび上がってくる。
 「大岡氏が恐怖を嫌うのは、それが不快な感情であるためばかりではなく、同時にものを誤認させ、氏の明晰な世界を崩壊させるおそれがあるからであろう」(『読まれることの拒否』)という古屋健三氏の言葉を待つまでもなく、大岡の論理性はある意味で、性癖に近いものではないかと思われる。いかなる場合も冷静な認識者であり続けようとする意識傾向には少なからず、ストイックに物事を受け止めることへの「快さ」(陶酔感)も働いていたようだ。大岡に「死の観念は快い」と言わしめた所以も、この性癖からくるものと捉えることができるだろう。
 そのような意識の下にあった軍隊生活も、マラリアによる発熱のため軍に見棄てられたような形で、一人自然の中を彷徨することで終止符を打つ。この時起きたのが、あの「捉まるまで」の主題ともなっている、米兵との出会いである。
 大岡自身、何故米兵を殺さなかったかという問題をめぐって『俘虜記』において、さまざまな想起と考察を加えている。
 それらをかいつまんで列挙すると、
 人類愛的動機によるもの・動物的反応に過ぎない・米兵のばら色の頬が父性愛を喚起させたため・他人を殺したくないという嫌悪、つまりは自分が殺されたくないという願望、と執拗なまでの自己分析を試み、さらには「この時既に自分は兵士ではなかった」、「敵は別にいるという意識」と、考えようによっては自己防御の壁を高々と積み上げているとしか思えない論理を展開している。このことはすなわち、大岡の論理的混乱を示しており、これらは意識の底から拭いきれない、割り切れなさとして沈殿してゆく。この事件こそが、以降の創作における主要テーマとして発展することを思えば、実に興味深い。
 しかし、錯綜する記憶をたぐり寄せて、骨格のしっかりした、矛盾のない風景として再構成するには、『野火』はその虚構性によって、実現しうるものではなかった。やはり、時々刻々の推移を第三者として追体験するという手法、たとえば『俘虜記』、『ミンドロ島ふたたび』等の実験を重ねてゆくしかなかったのである。

大岡自身の戦争体験と創作4





 『俘虜記』の実験は、会話という方法によって、過ぎ去った時間の薄暗がりを手繰り寄せようとした、『問わずがたり』にも通じるものがある。過去へできる限り近づこうとしながら、どうしても過去の事実とは重なり合うことができない、現在という位置。大岡の意図として、ひとつの結論を導き出すことより、むしろ、ひとつの失われた空間の獲得に比重があった。もっと言えば、映像の再構成だけではなく、新たな意識の獲得への試みでもあったのだ。問題なのは、個人的体験を作品において、どのように重層化し、深化させたかである。
 観念=実際の行動という彼の性癖を考えると、解決されなかった部分をそのまま放置するということは、どうにも耐え難いことであったのだろう。何らかの形で解決させるまで、とことん突き詰めることが、彼の創作動機であったと言っても過言ではない。仮説を仮説に終わらせたくない、深淵まで見つめてみたいという大岡の探求心と、個人的体験を体験の枠内に収めておくことを許さない潔癖さが、作品に色濃く滲み出ているのは、まさにそのためである。
 彷徨ののち、戦地体験の後半である俘虜生活に入ってゆくのであるが、ここで彼は、精神的にも俘虜であるもう一人のおのれと出会う。それは「身を卑しめて相手に喜ばれるのを喜ぶ」阿諛者としての俘虜性であり、意識の堕落から行動の堕落へと移行する、占領下における日本人の俘虜性であった。
 「戦場から我々には何も残らなかったが、俘虜生活からは確かに残ったものがある。そのものは時々私に囁く。−お前は今でも俘虜ではないか−と」(『俘虜記』−「戦友」)とあるように、この精神的俘虜性は、復員後も異物として残り、さらには人格の一部分として深く根付こうとして大岡を苦しめるのである。「道化が笑われることによっても、社会に受け入れられたいという気持から生れるとすれば、そんな気持はたしかにその頃から私の心にあった」(『少年』)という記述からもわかるように、阿諛者的性格はすでに少年期にも認められたが、明らかな色彩を帯びて彼の前に立ちはだかるのは、俘虜となったこの頃からだろう。語学に長けていた大岡は、通訳者としての地位に安住し、自立性と独自性を失ってゆくおのれの姿に、いやというほど阿諛者の影を見てしまうのだった。

大岡自身の戦争体験と創作5





 また、レイテ島の一俘虜収容所に、戦後社会のミクロコスモスを見た大岡が、『俘虜記』後半の描写に、風刺的色合いを添えて語っていることは、俘虜体験を通しての自己認識と社会認識に立脚しているものと言えるだろう。  以上、従軍、彷徨、俘虜という体験が、作品において、どのような形で結実しているかについて述べてきた。しかし、これまでの分割した視点ではなく、戦争体験という、大きな一括りとしての視座に立って見るならば、今二つばかり重要な事柄が残されている。
 その一つは、戦争という巨大な動きに翻弄され、死んでいった多くの人への哀悼の情である。これは、膨大な資料との戦いとも言われた、あの『レイテ戦記』において、鎮魂歌として結実しており、英雄的死者のみならず、敵兵をも含む、すべての戦争の犠牲者の血と肉を塗りつけた史実として、太平洋戦史の研究上大いに貢献し続けている。
 そしてもう一つは、偽りを繰り返してきた醜悪な指揮者と参謀を含む、軍事国家日本の暴力に対する反発である。「敵は別にいる」という意識とともに、多くの犠牲者を出さずにはおかなかった戦争の実相を知りたいという欲求が、上記の『レイテ戦記』を書かせたもう一つの動機であった。大きな波に揺さぶられる泡沫のような人々を、冷静に見下ろす大岡の姿勢は、戦争物に限らず『酸素』などの社会派小説にも共通するものである。

 「一人の作家の現実世界における体験が作品として結晶するためには、それ相応の屈折や濾過の作用が必要である」(『大岡昇平における戦争体験と創作』加賀乙彦)という言葉が示すように、本来の文学作品とは、現実体験から独立したものでなくてはならない。
 体験に依存し、なんら発展性のない作品に文学的価値を認めるのは困難であり、それが小説という形態を取る場合、なおさら浮き草のような存在となってしまう危険性がある。大岡の場合、問題意識の解決の糸口として、あるいは論証の手立てとしてそこに作品があり、一般に記録物と言われる作品においても、また仮構的な作品においても、事実をさらに「真実」に近づける多くの試みと探求を怠ってはいない。曖昧で不確かな記憶に対して、想起と考察を重ね、視座を変えることによって、意識を再構築し、体験の枠を越えようとしたのである。


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極限状況におけるカニバリズム1





 人肉食は、人類最後のタブーと言われている。とりわけ日本においては、人でなし、鬼畜にも劣る行為と蔑まれていたために、言い伝えという形態で伝承されるにとどまり、手がかりとなる資料は極めて少ない。しかし水面下の数は、おそらく想像を絶するものであろう。全人類的に見るならば、人肉と共に人間の精気を摂取するという信仰に基づく未開人の祭儀式慣習から、漂流船上における最後の手段としてのそれに至るまで、数多くの記述が残されている。ここで簡単に分類するならば
・信仰に基づく宗教的儀式
・征服者が敵兵の肉を喰らって権威を誇示する政治的行為
・性的な嗜好、相手を存分に味わいたいという究極のフェティシズム
・飢饉や、戦場での飢えなど、緊急事態でのやむを得ぬ行為 この論文の性質上、最後の項目、やむを得ぬ行為としてのカニバリズムについて考察したいと思う。

「人間の中の動物的なものの領域は広大である。平時の社会はそれを制御することによって成り立っているが、戦争はむしろそれを奨励し解放する」(『レイテ戦記』)とあるように、その敵を殺すという目的自体に、すでに野蛮な要素が色濃く付随している。そして、人間に内在するその他の動物的部分も、同時に解放してしまう熱病のような性質が、戦争にはあるのだ。現に強姦と虐殺は付きものであり、罪を罪とも思わぬ暴兵が、多くの狂行に至った事例は少なくない。
『俘虜記』の中で、人肉食の話を持ち出した黒川軍曹に対して、大岡がひどく嫌悪を感じる場面がある。その理由は、「冗談だと思う者がいたほど切迫していなかった事態において、彼だけそれを言い出したことに」あった。陣中美食の習慣と陰惨な対敵意識を所有する彼ら(すべての兵士ではなく、「手段を選ばず」流の暴兵の論理と、占領地の人民を人間と見なさない圧制者の習慣を所有する一部の兵士たち)にとっては、贅沢から人肉を食するという非人間的行為も、何の抵抗もない連想であったのかもしれない。
戦場においては、上記のようなこれまでの倫理観から容易に逸脱する者もあれば、その終焉まで人間であろうとした者もいたであろう。人肉食に踏み切った者とついに踏み切れなかった者。『野火』の主人公が、その後者であったことは言うまでもない。

極限状況におけるカニバリズム2





 それほど切迫していない事態において、人肉食とは、許されざる行為であることは言うまでもない。が、たとえば『野火』のような切迫した事態において、仮に「食べてもいいよ」という許可を得たとしても、なおその行為を禁じさせるものがあるのは何故なのだろうか。
それは、飢者の目から見れば、他の動物とさして変わらない組成構造を持つ肉体でありながら、それでもその中に存在し続ける人間的なものに対する畏怖の念が、われわれの意識の中に根深くインプットされているからではないだろうか。人間社会において、殺人という罪は、社会的法規によって裁くことが可能である(けして殺人が法規によってのみ解決しうるというわけではない)が、人肉食という罪は、社会的法規によっては解決されない、もっと根源的な罪を内在させている。
罪の軽重について、同じくカニバリズムを扱った『ひかりごけ』(武田泰淳)の作中に、興味深い分類があるので、ここに引用したい。
1.たんなる殺人
2.人肉を喰う目的でやる殺人
3.喰う目的でやった殺人のあと、人肉は食べない
4.喰う目的でやった殺人のあと、人肉を食べる
5.殺人はやらないで、自然死の人肉を食べる
この5つを比較すると、2は1より重罪で、4は3より重罪(らしい)と武田氏は分析している。さらに付け加えて、「殺人の方は…きわめて平凡で、よく見うけられるが、人肉喰いの方はほとんど地球上から消滅しつつあるから」と考察している。理由は極めて簡単であるとしながら、『ひかりごけ』においても、神を引き合いに出さずには描き切れなかったことを考えると、やはり平凡とか稀とかという数値的な問題ではあり得ない。また、武田氏は、「文明人」だからこそ下等な行為に対して、吐き気を催すような嫌悪感を抱くのだと説明しているが、それでもまだ説明不足の感は否めない。
 もし、上記のような理由だけなら、何故武田氏は、前半を紀行文、後半を戯曲という、極めて特殊な形態でこの問題を取り上げたのだろうか。いわく言い難い何かがあるために、大岡にしても武田氏にしても、行間から読み取ってくれと言わんばかりの筆致姿勢を取らざるを得なかった。武田氏に至っては、戯曲の演出さえも読者に委ねている事実こそ、この問題の扱い難さを物語っていると言えるのではないだろうか。

極限状況におけるカニバリズム3





 厳密に言えば、『ひかりごけ』は三部構成である。第一部は、地元の校長先生に案内され、北海道の羅臼地方を巡った、武田泰淳自身の紀行文という形態を取っている。第二部はマッカウス洞窟(実際の事件では番屋)での惨劇を再現した戯曲。第三部は第二部より六ヶ月を経過した法廷の場面(同じく戯曲)という構成になっている。付け加えると、『野火』は架空の物語であるが、この物語は実際に起きた死体損壊事件をモチーフとしており、皮肉にもこの作品が発表されて以降、「ひかりごけ事件」として世に広く知られることとなった。モデルとなった船長は平成元年にこの世を去ったが、風評に曝され続けた心中はいかばかりであったであろう。察するに余りあるものがある。
 さらに、『野火』と『海神丸』(野上弥生子)を念頭に置きながら書かれた、オマージュ的な作品であることもここに付け加えねばなるまい。『海神丸』との類似点、(たとえば登場人物、五郎助→五助 八蔵→同じく八蔵)から推察すると、武田氏は、彼なりのやり方でこの問題にメスを入れようと、大いなる気概を持って取り組んだことが伺える。その「気概」の成果であろう。『野火』では照射し得なかった事柄について、独自の展開を見せているので、以下にまとめてみたい。
1.船長の我慢とは何か
船長はたびたび「我慢」という言葉を口にする。第二部と第三部ではその意味合いも異なるが、はたしてその真意とは…
〈第二部での我慢〉
・飢え、ひもじさに耐えているという意。
・究極の二者択一への葛藤。迷い続ける心理状態、それ自体を我慢と表現した。
・食べたいのはやまやまだが、殺人はしたくないので相手が死ぬまで待つという我慢。
・生き延びるためにはやむを得ず、非道な行為も敢えてしなければならないという我慢。
〈第三部での我慢〉
・極限状況に陥った者でなければ、自分の苦しみはわからない。当り前のこととして食卓を囲む人々にいったい何がわかるだろう。立場を共有し得ない人々に裁かれることへの我慢。
・罪を真に裁けるのは神か、あるいは自分の食人の犠牲となった仲間しかいない。この無意味な法廷の場に立ち続けることの我慢。
・自分の罪はすでに確定した動かし難いものである。咎を背負って生き続けるという我慢。
船長自身が口にしているように、「スッパリと西瓜わったように」単純なことではない。上記の事柄が幾重にも絡み合った複合的な我慢と言うべきだろう。

極限状況におけるカニバリズム4





2.光の輪について
「光の輪のついた者には、見えないんですよ。〈あれ〉をやった者には、見えないんですよ」(『ひかりごけ』)
人肉食を犯した者の首の後ろには、仏像の光背のような光の輪が浮かぶ。
五助との約束を守って、五助を食べなかった八蔵にはこの光が見えて、食べた西川と船長には、お互いの光が見えない。この第二部の光の仕掛けが、実は第三部でもっとも重要な役割を担っている。と言うのは、食人を犯した船長だけではなく、検事にも傍聴の人々にもこの光が見えず、船長を除くすべての人に光の輪が浮かぶからである。第二部において、船長にも確かに生じた筈の光の輪。第三部で現れなかったのは何故なのか。結局光を見ているのは、観客である読者だけという、なんとも込み入った仕掛けだが、これをどう受け取ればよいのだろうか。
理解に苦しんだ末の解釈を言えば、人が生きてゆくこと、それ自体が罪深いという観念が、この小説の根幹にはあるようだ。人間は他者を犠牲にして生き延びてゆくもの。衣・食・住、どれを取っても自然界の犠牲なくしては、一日たりとも存続し得ない存在、それが人間なのである。死後に食べられることを承知しながら、その肉体を差し出した八蔵は、自己犠牲によって贖罪をなし得たと言える。片や、船長を責めることでおのれの正義欲を満たそうとした人々は、「傲慢」の罪を問われても仕方のないことだろう。我慢を知らず、自分の罪に無自覚な人間。これは、あまりに穿った考え方であろうか。ゴルゴタの丘を連想させるラストにしても、全人類の罪を船長(キリスト)一人に背負わせているような感じがあって、この解釈もあながち間違ってはいないような気がするのだが…。

船長の我慢には、『野火』の狂気と相通じるものがある。「まともに見ることのできない対象を、正視しないための精神の安全弁」(『薄められた狂気』−レイテ戦記・野火について−入江隆則)としての狂気を思えば、船長の我慢もまた、安全装置の一つとして捉えることができるだろう。どんなに辛くても、非難の嵐を浴びながら生き続ける我慢を、彼は選んだのである。その道こそが船長の贖罪であり、それゆえに彼の光の輪は第三部において消滅したのだ。自殺を自らに禁じた、田村一等兵の姿と二重写しになって、われわれに訴えかけてくるもの。揺るぎない彼らの精神力に期せずして、到達不可能な境地を見出すのである。

極限状況におけるカニバリズム5





フィクションの中のカニバリズム

『野火』に「狂人日記」という章がある。誰もが連想する魯迅の『狂人日記』、周知の通りこれもまた食人の話だ。が、こちらは食べられる側の恐怖を描いたもの。一部のアイヌ族に、かつて食人の風習があったと『ひかりごけ』にも記されているが、四千年という文化を誇る中国においてさえ、近年まで半ば公然と行われていた形跡がある。「人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない」という『狂人日記』の締めくくりに、その実態も想像できよう。また、日本においても、未曾有の大飢饉となった天明年間、餓死者の少ない農村を調べると、人肉を塩漬けにして大瓶に保存してあったという。いかに文明国であろうと、大規模な食糧不足という事態に及べば、今後二度と起りえないとは言い切れない事柄なのだ。
地球規模で発生した人口増加と食糧不足を、解消するための人肉工場の話(『事業』安部公房)や、白人文明の食卓を彩るヤップステーキの話(『家畜人ヤプー』沼正三)など、これらは荒唐無稽な幻想小説ではあっても、どこか一笑にふすことのできない示唆を含んでいる。価値基準が変われば、禁忌の内容も容易に変わりうる人間というものの底知れぬ怖さ、と言うべきか。
『わが魂、久遠の闇に』(西村寿行)は、確かに極限状況下のカニバリズムを描いたものではあるが、かつて三氏(大岡、武田泰淳、野上弥生子)が苦悩の末に書き上げた一線を軽々と飛び越えている。目の前に横たわるのは人ではなく、肉であるという置き換えがスムーズで、多少の躊躇、葛藤はあるにしても『野火』や『ひかりごけ』の比ではまるでない。ミステリーという性質上の理由もあるだろうが、それだけではないようだ。
『野火』の発表は1951年、『ひかりごけ』は1954年。以来われわれの意識構造は大きく変化しつつある。母親を自宅で切り刻み、その首を警察に持ち込んで反省の色も見せない高校生。今や、現実にそういう猟奇事件に事欠かない時代なのである。驚愕をもって迎えられた『羊たちの沈黙』の異常性にもいつしか慣れてしまった、この感性の磨耗からくる、一種の麻痺した感覚で読めば、彼らの苦悩は滑稽とさえ映ってしまう。精神の崩壊すれすれまで苦しむ人間の、真に人間的な部分。カニバリズムという響きの特異性ばかり目を引くが、忘れてならないのは、そういう部分ではないだろうか。

極限状況におけるカニバリズム6





『おろおろ草紙』に見る極限

この章のタイトルは「極限状況におけるカニバリズムについて」である。ここまで、カニバリズムについての考察はしてきたものの、「極限」についてはどうだったのか。はたと立ち止まらせたのが、三浦哲郎の『おろおろ草紙』だ。「極限」の字義について、広辞苑では「行きついたぎりぎりのところ。それ以上はないところ」とある。『野火』や『ひかりごけ』での飢えは、はたして本当に極限であったのか、次のくだりを読んでしばし考え込んでしまった。
「倅は、ひもじさに耐え兼ねて、囲炉裏の自在鉤の弁慶を取り外し、そこに染み込んでいる去年までの煮焼きの名残りを一心不乱に噛み締めているうちに、いつしかおのれの指をも食い破り、その血の味に誘われて、なおも両手の指の腹を身欠き鰊でも噛むようにして食いちぎっていたのでござります」(『おろおろ草紙』)
『おろおろ草紙』は、天明の大飢饉下の東北地方を舞台に、共食い事件を描いたもの。下級藩士、立花小十郎が見聞した事柄の日録、という形態を取っている。上記の「倅」とは、年端もいかぬ少年であるが、気づかぬうちにおのれの肉を食い破るとは、どれほどの飢えであろうか。「地面に生えているものを食い尽くすと、松の皮を剥いで」食用にし、飢渇(ケガズ)負けの発作が起きると、雷に打たれたかのように、頭が痺れ、目がかすみ、手足が硬直する。共食い云々以前にあまりのひもじさで、気がふれてしまう飢饉下の状況。これを極限と言わずに何をもって極限とするのだろうか。
「破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎり取った。私は地に落ちたその肉の泥を払い、すぐに口に入れた」(『野火』転身の頌)
田村一等兵のこの行為は無意識である。無意識であるにもかかわらず、「私の肉を私が喰べるのは、明らかに私の自由であった」と、例によって自己分析する余裕。ここに至って、『野火』批判をするつもりなど毛頭ないのだが、そこには知識人の欺瞞があるように思えてならない。
究極の飢えとは、理性も意識も介入することができない狂気の果てにある。『おろおろ草紙』は、共食いの事実が記されている古文書、『天明日記』を踏まえながら著されたもの。人間の苦悶、葛藤を一切排除し、事実だけを淡々と伝える筆致が、凄まじい実相を突きつけている。

極限状況におけるカニバリズム7





極限状況における食人を取り上げた作品について、今一度その特徴を確認してみたい。
1.食人に関わってはいない第三者に、裁かれることの不条理…『ひかりごけ』
2.喰う目的で人を殺しているが、実際には食人に至らない…『海神丸』
3.グロテスクな描写を作品のスパイスにした…『わが魂、久遠の闇に』
4.行為に至った心理状態に言及せず、食人の記録に留まった…『おろおろ草紙』
1は、社会的人間存在に対する批判に転化しているという意味で、2は、それを経験させていないという意味で、食人の問題を真正面から取り上げたとは言いがたい。本多秋五の言葉を借りれば、「道化と寓意をまぜ合わせた奇妙な文体」である『ひかりごけ』では、食人を経験させることが可能であっても、『海神丸』のような、「端厳精緻なリアリズムの文体では、ほとんど書くことが出来ない」ものなのだろう。さらに3は、作品へ誘引する役割しか持ち得なかったという意味で、4は、記録文の域を出ることがなかったという意味で、これもまた上記二作品と同じと言える。
この『野火』も、人間の肉とは知らずに「猿の肉」を食べたに留まり、本当の意味で、主人公に人肉食を体験させてはいない。
 これらのことからも、食人を真正面から取り上げるには、非常な努力と苦痛を伴うものであり、そのため、どうしても主題解決のための副次的な位置に置かれてしまっていることは否定できない。時には凄まじくも哀しい生の姿を、時には皮肉に満ちた人間批判を、描くための道具立てに過ぎず、これ自体を独立したテーマとして掘り下げるのは、とてつもなく困難であることを示唆している。
 『野火』に戻って言えば、ここでも、不遜で倨傲なる精神の持ち主である主人公を浮き彫りにし、神を引き出すための副次的要素でしかない。しかしながら、この食人という問題を核にして揺れ動く心情、錯乱した理性に、人間の限りない正負の可能性を見出すことはできるだろう。潜在意識を明るい知覚の表面へ引きずり出して、無限に高揚し、無限に卑俗化する、その振れ幅をわれわれに提示するための、仲介的役割を担っていた。それこそが、『野火』におけるカニバリズムの存在意義であったのではないだろうか。


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主人公を見下ろす作家の眼1





 最後に、これまでの考察でなお未消化、未解決の問題について、掘り下げてみたい。その未解決の問題とは他でもない、主人公は果たして人の肉を喰べなかったと言えるのか、というもっとも重要な事柄についてである。
以下、この問題に関する主要箇所を順を追って、抜き出してみたいと思う。
・私の質問する眼に対し、永松は横を向いて答えた。「猿の肉さ」「猿?」…「肉」
・あの猿の肉を喰べて以来、すべてなるようにしかならないと、私は感じていた。…「肉」
・これが「猿」であった。私はそれを予期していた。…「猿」
・「お前も喰ったんだぞ」「知っていた」…「転身の頒」
・しかし肉はたしかに喰べなかった。喰べたなら、憶えているはずである。…「転身の頒」
・人を殺したとはいえ、肉は喰わなかったのだから、何でもない…「狂人日記」
・思い出した。彼らが笑っているのは、私が彼らを喰べなかったからである。殺しはしたけれど、喰べなかった。…「死者の書」

主人公は、「喰べなかった」と執拗に繰り返している。人の肉とは知らなかったのだから、喰べたことにはならない、と。しかし、上記を読んで明らかなように、記憶のすり替え、合理化がそこにはある。彼は漠然と理解していながら、と言うよりむしろ確信を抱きながら、「猿の肉」を口にしていたのだ。「あの猿の肉を喰べて以来、すべてなるようにしかならない」という独白こそ、そのことを動かしがたく裏付けている。
本書のレビューにはしばしば、「人肉嗜食に踏み切れなかった男の葛藤」云々という文句が添えられており、この点についての言及は、ほとんど見られない。がしかし、上記の独白以降も、保存してあった干し肉をなくなるまで喰べ続けたことは、この作品中、最大の欺瞞であると言って良いだろう。
この点についておそらく、大岡は充分に承知していた筈である。彼は、倨傲な主人公を浮き彫りにするために、抜かりなくこれを仕掛けたのだ。「喰べなかった」と繰り返す主人公田村を、冷ややかに見下ろす作家の眼がそこにはある。
屍体から血を吸った山蛭を押しつぶして、中に充ちた血をすすり「他の生物の体を経由すれば、人間の血を摂るのに罪を感じない」(「手」)とした珍妙な理屈。主人公には、この理屈が生きる上で必要不可欠であった。それと同様、「喰べなかった」と錯誤しなければ、精神の安全弁を保つことができなかったのである。

主人公を見下ろす作家の眼2





 『野火』を構成している三者の「眼」について触れよう。
まず第一に、レイテ山中を彷徨している現在進行形の主人公の眼。第二に、過去を振り返り、自分の後ろ姿の全身像を、視覚的に追体験している主人公の眼。そして第三は、作家、大岡昇平のそれである。これらは、ある時は一方が前面にせり出して他方を覆い、その立ち位置を入れ替えながら互いに牽制しあって物語を進行させている。
 読み手であるわれわれは、その三者をしばしば混同するが、この論文で繰り返し述べてきた知識人の欺瞞、驕りは大岡を指したものではなく、主人公を照射しての指摘であることを、ここで改めて主張したい。
 たとえば、「まだあたたかい桜色の肉を前に、私はただ吐いていた。…神が私の体を変えていたのであれば、神に栄えあれ」を今一度解読するならば、現在進行形の彼は、過度の混乱の中で、体がその肉を受け付けないでいるに過ぎない。そして、「神が私の体を変えた」という意味づけは、回想している彼の認識であり、それに続く意識の高揚は、回想することで到達した結論への高ぶりである。この時点で、大岡はずっと後方に退き、この様子をじっと観察している。主人公にとって都合の良い神の描出、それを讃えるエゴイズム。「神に栄えあれ」と叫ぶ主人公は、ここに至ってもっとも神から遠い存在になってしまった。そのことを彼自身は気づいていない。気づいているのは、ズームアウトで捉える作家の眼、だけなのである。
 このように読み解くならば、食人のみならず、神さえも『野火』においては仲介的役割を担っているに過ぎないと、読者は思い至るであろう。そしてまた、主人公を見下ろしながら、自らのレイテ体験を振り返り、何かしらの意味を導き出そうともがいている大岡を、われわれは見出すのである。主人公の歩みを観察する自虐的なまなざし。その容赦のない視線は、書き手自身に鋭く跳ね返ってくる。
「作者は登場人物を、そして作者自身を、自我の小さな穴から救い出そうとこころみていながら、むしろ自他を陥穽に引きずりこもうとする衝動のほうが、はるかに強い」(「現代日本名作選 大岡昇平」福田恒存)とは、言い得て妙。光を当てることで、さらに打ち消されたおのれと向き合うことになろうとは、なんと皮肉な結末であろう。「神に栄えあれ」と結ぶ孤影。主人公と相似形であり、けしてイコールではない姿が、そこにはある。


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『野火』研究を終えて





 『野火』は、作者である大岡の作為と意図が、巧妙に張り巡らされているものでありながら、できるだけ作為を隠し、リアリティを前面に押し出した作品と言えるだろう。しかし、そのリアリティがあまりに出来過ぎたせいで、却って作為が露呈してしまった嫌いがある。それは例えば、夢の中に出てくる怪物の髭が何センチ、足が何センチと描く、ドストエフスキーの技巧のように、現実味が行き過ぎたことで、非現実的になってしまうのと同じ作用だ。周到な意図によって、時にはリアリズムへの接近を成功させ、時には架空の本質を暴かれながら、本書は書き進められている。
また、多くの戦後文学者たちが、戦後という時代を生きようとはせずに、戦後という時代背景に昭和十年代を追憶しながら生き、おおむね回顧的傾向にあったのに対し、大岡は戦後という時代を、「文学者が生涯に何度所有しうるかわからぬ、時代との共鳴現象」(『戦後のなかの位相』中野孝次)に身を震わせながら生きた作家であった。確かに、題材を過去の出来事から収集してはいるが、けして懐古趣味に陥らず、現在という時間の認識と、未来に対する透視を怠ることはなかった。すなわち、戦前から戦後へと至る通時的な全体像を表現することを、彼は目的としたのである。体験に埋没するのではなく、体験を普遍化することで、ひとつの定義を導き出す。大岡の筆致が常にそのようなものであったことは評価に値するであろう。

 丸谷才一はその著書『文章読本』において、『野火』のレトリックに対し、最大級の賛辞を寄せている。また、『野火』が翻訳されて、海外の読者に強い感銘を与えたのはおそらく、神というテーマと美しい文体によるものであったと推測する。最後にその秀麗な文章の一部を紹介して、この論文を締めくくろうと思う。

 「万物が私を見ていた。丘々は野の末に、胸から上だけ出し、見守っていた。樹々はさまざまな媚態を凝らして、私の視線を捕えようとしていた。雨滴を荷った草も、あるいは、私を迎えるように頭をもたげ、あるいは向うむきに倒れ伏して、顔だけ振り向いていた」(「野の百合」)


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