虫太郎から遼太郎まで なんの脈絡もなくあっちこっちに方向転換しながら 読後感を綴りました どうぞ気軽にお立ち寄りください

                   
浅田 次郎安部 公房 海老沢 泰久
小栗 虫太郎 司馬 遼太郎 竹本 健治
ダニエル・キイス 辻 仁成 中井 英夫
野沢 尚帚木 蓬生 藤沢 周平
藤原 伊織宮城谷 昌光 村上 春樹
夢野 久作

― 管理人のつぶやき ―

超難解 『黒死館殺人事件』 小栗 虫太郎

旧漢字、旧仮名遣いに加えて、晦渋極まる文体。それなりの予備知識も必要で、少なくとも『ファウスト』(ゲーテ作)くらいは読んでおきたい。奇書中の奇書を手に、早くも夢幻の世界にのめり込んでゆく気配。難解さは読み応えに繋がり、至福への道のりでもある。今月中にはなんとしても読破したいものだ。もっとも、一度読んだだけで「読破」と言えるかどうか…。作中に登場する等身大の自動人形、テレーズの不気味さに、コミックの『からくりサーカス』を思い出した。悪魔学あり、錬金術ありで、期待と戸惑いに身震いする日々である。

2006.4.15

『壬生義士伝』 浅田 次郎

妻子を養うために脱藩し、新撰組で「人斬り貫一」とあだ名された男の、非業の生涯を描く。
その男、吉村貫一郎にとっての義とは、藩への忠節でもなく、ましてや尊皇攘夷の志でもなく、妻子を飢えから救い、生き長らえさせることであった。まず、この小説の構成が面白い。多くの生き証人たちの話と、吉村自身のひとり語りの場面を交互に挿入し、次第に吉村という人物の輪郭を浮き彫りにしてゆくという仕掛け。守銭奴、出稼ぎ浪人と蔑みながら、何故か周りの人々は彼を案じ、愛さずにはいられない。なるほど、天下国家を憂うわけでもなく、限りなくちっぽけな志(矜り高き貧と賎の志)の持ち主ではあるが、彼はその名の通り、遂に志を曲げることはなかったのである。金に抜け目はないが、けして金で動かぬという、一見矛盾する男の後ろ姿に、滑稽さを越えて孤高の切なさが滲む。南部盛岡の美しい情景、お国訛りの温かさが、この物語に一層情味と味わいを添えて、感慨深い。
新撰組の生き残りや、吉村の関係者に話を聞いて回っている人物。これはおそらく、子母澤寛を想定しているのであろう。北海道出身、編集者、大正期、新撰組三部作…ということを照合すると、それ以外に考えられない。
これは余談だが、本作での沖田総司は、司馬版でのさわやかな印象は薄く、一癖も二癖もある悪童として描かれている。が、それはそれで魅力があって悪くない。
以下、印象に残る箇所抜粋。
◆才を持ちながら、もしくは才を持ったがゆえに世の中の仕組に押し潰され、抗うべくもない世の流れに押し流される。吉村貫一郎はそうした矛盾の雛形じゃった。(斉藤一談)
◆軍隊じゃあたしかに、死に方は教えてくれるがね。生き方ってのを教えちゃくれません。本当はそっちのほうがずっと肝心なんだ。生き方を知らねえ男に、死に方なんざわかるもんかい。(佐助談)

『砂の女』 安部 公房

昆虫採集に異常なまでの嗜好をみせる教師、仁木順平。彼は誰にも行き先を告げず新種発見の旅に出かけ、とある海辺の集落に辿り着く。砂に埋もれた家に穴居する人々、そこは、砂が人間を生殺しにして飼う、無間地獄のような所であった。男はそのうちの一軒に監禁され、砂掻きの労苦を強いられることになる。何度も脱出を試みては失敗し、いつしか、不便極まりない生活を受け入れる主人公。非日常も、弛まない繰り返しによって日常と化す。慣れてしまえば、不条理も心地良くなってしまうということか。虫にピンを刺し、死の香を放つまでじりじりと弄んでいた男が、囚われて同じような運命を辿るパラドクスは絶妙と言うしかない。
ありえない場面設定。シュールレアリスムに傾倒した公房ならではの特異な世界に、痺れるような陶酔を覚えた。細密な描写と比喩の多用は、慣れるまでかなり読みづらい。が、詩文にも通じるレトリックの巧みさは特筆に価する。以下にその一例をあげよう。

◆渇きが、こめかみのあたりで、破裂した。その破片が、意識の表面にちらばって、ぶつぶつの斑点になった。
◆スコップを手にしたとたんに、折りたたみ式の三脚のように、疲労で骨がずるずると短くなる。
◆一枚一枚、砂の薄皮をむいては流しつづける、風のナイフ。
◆水にたらした墨のように、よどんだ疲労が、輪になり、くらげになり、くす玉になり、原子核模型図になって、にじんでいく。

『赤い繭』 安部 公房

四つの寓話的短編。共産主義の影響が色濃く、徹底した幻想世界が、秘められた現実をあぶり出す。
◆赤い繭
教科書にも採用されたことで、公房の作品群ではもっとも有名である。「おれの家が一軒もないのは何故だろう?」という問いに、とんでもない答えを導き出す、逆転の発想がユニーク。肩書を剥ぎ取られた人間に対して、世間の顔という顔が、冷たい壁になる。弾き出された男は足もとからほつれ、やがて、ほつれた糸に包まれる、魂だけの存在となってしまう。肉体と引き換えに、「繭の家」を手に入れた男は、ほの赤く発光しながら、なおも彷徨い続ける。
◆洪 水
ある日、労働者の液化現象が次々生じる。底辺から、上流階級へとそれは広がり、最後は狡猾なノアまで呑み込まれ、第二の洪水によって人類は絶滅する。『赤い繭』ではほつれ、『洪水』ではとろける人間。人体の60%は水だというから、「液体人間」のおとぎ話が、妙に真実味を帯びてくる。上昇志向で登りつめる、現代社会への警鐘か。お山のてっぺんをめざすのはいい、だが、無常という均衡を崩し、流れを堰き止めてはならない。
◆魔法のチョーク
貧乏な絵描きの話。魔法のチョークで、壁にパンやコーヒーを描くと、あら不思議…。子どもの頃、これとよく似た空想をしたものである。しかし、おいしい・満腹・幸せで終わらないのが公房作品であって、いやぁな予感通りの結末が待ち受けている。身体中、壁とチョークの成分でいっぱいになり、ついに壁と同化してしまうアルゴン君。ざらざらと堆積してゆく閉塞感は、『砂の女』を彷彿とさせる。
◆事 業
巨大鼠の量産を手がけたソーセージ工場で、ついに人肉ソーセージの加工が開始された。地球規模で人口増加と食糧不足が進行するという設定。現代が抱える課題と二重写しになって、ブラックジョークと笑い飛ばすことができない。グロテスクな描写の残像は、映像より言葉の方が始末におえないようだ、どうにも後味が悪い。

『箱 男』 安部 公房

人間社会は「見ることと見られること」の不機嫌な関係によって成り立っている。しかし箱男は、「見られずに見ること」を望む、極めて自己チューな存在。はっきり言ってしまえば、見咎められずに覗き見するという、誰もが秘め持つ欲望の遂行者なのである。
この物語の特異性は、まるで夢の世界のように一貫性がないところだろう。まず第一に、贋者を含めて何人もの箱男が登場するということ。「ぼく」は元カメラマンかも知れず、医療を放棄した軍医かもしれなかった。それだけではなく事によっては、「たとえばA」である可能性もあり、覗きを見つけられた少年Dとも考えられ、主人公の実像に迫りたくても、人格を象る輪郭にまるで脈絡がない。これは、雰囲気だけは生々しく残っているのに、人物の顔がどうしても思い出せない、夢そのものの印象に極似していないだろうか。しかも、「ぼく」と贋箱男の会話の中で、次のようなことまでぽろりと口にするのだ。「それを言ったら、あんたたち自身、ぼくの空想の産物に過ぎないことを自分から認めてしまう事になるんだぞ」、この一文をどう受け取ればいいのだろう。「あんたたち」とは贋箱男と看護婦のことを指すのだが、額面通りに捉えるならば、贋者、つまり供述書を書いているCさえも「ぼく」の一部であるということになってしまう。
そして次に上げられることは、時間の観念がそっくり抜けているということである。海辺に干した洗濯物は、塩気を含んで何時間もだらりと湿り続け、箱の中の落書は、どんなに書いてもたっぷり余白が残されている。出口に辿り着いたその一歩が、同時に入り口に踏み入っているという無限循環。読者はメビウスの迷路に、ただ呆然と立ち尽くすしかない。
そんなわれわれ読者のために、公房が与えてくれたヒント。貝殻草の寓話こそ、この小説を理解する上で重要な手がかりと言えるだろう。「貝殻草の匂いを嗅ぐと、魚になった夢を見る」という。魚の形をした拘束衣の中に押し込まれた贋魚は、やがて溺れ死んでしまうのだが、「夢から覚める前に死んでしまったので、もうそれ以上覚めるわけにはいか」ず、贋魚は未来永劫、夢の中に閉じ込められてしまう…。つまりこの小説を、既に死んでいる男の、夢から覚めないままに綴った手記と捉えるならば、すべてのピースが納まるところに納まったパズルように、納得できるのである。

『密 会』 安部 公房

― 娘の母親でこさえたふとんを齧り、コンクリートの壁から滲み出した水滴を舐め、もう誰からも咎められなくなったこの一人だけの密会にしがみつく ― こう締めくくる結末に、この物語の異様さが表出している。二つの下半身を持つ馬人間、ぶよぶよの生ゴムのような溶骨症の少女、綿吹き病のその母(アカチンと血に染まった緋色のふとん)…胸が悪くなるような奇っ怪な生き物たちが、深層に潜む哀しげな人間の素顔と重なり合う。
失踪した妻を捜す男が、迷路のような大病院の陥穽にはまり、現実社会から消滅するという、公房得意の逆転現象。比較的後期の作品である本書は、変身、消滅、閉塞という彼のモチーフの集大成と言えるだろう。中村真一郎氏いわく、「彼の作品はひとつの比喩の装置であって、そこに(読者は)おのれの魂を沈めて、自分の夢を見ることになる」
おそらくその夢は悪い夢であり、私たちは、他人だけではなく自分さえも欺き続けてきた真実を目の当たりにするだろう。本書に嫌悪感を覚えるのは、醜い部分の蓋をはがして、否応なく突きつけるからである。エログロとこき下ろすことは容易い。だが、厳然とそこにある、素通りにはできない何かに、いつしか捉われているおのれも認めざるを得ないのだ。以下に「比喩の装置」抜粋。

◆額は汗ばみはじめたのに、胃に突き刺さっている氷片はさっぱり融けてくれそうにない。
◆サイレンの音がとだえた。さかりがついた機械猫が、どうやら新しい相手にめぐり合ったらしい。
◆疚しさが好奇心のマスクをつけると、人間はめくれ反って、裏返しの他人になる。
◆眼球をいっぱいに頬張って前頭部が脈打ちはじめていた。
◆トマトの皮のように中が透けて見える、無邪気でちぐはぐな微笑だった。

『カンガルー・ノート』 安部 公房

公房が闘病中に書き上げた、最後の長編小説。全編に散りばめられた滑稽味も、どこか笑えない重苦しさが漂い、これまでの作風とはまた違った手ごたえを感じさせる。解説のドナルド・キーン氏の言を借りれば、「これは私小説である」。あの自己憐憫を毛嫌いしていた男が、最後の最後にしたためたものこそ、限りなく私小説的であったという幕引きは、皮肉としか言いようがない。
ある朝突然、男の脛に「カイワレ大根」が生えてくるという、公房ならではの奇想はここでも健在である。とは言え、この本を手に取って以降、カイワレを見ただけで吐き気を催す読者もいるほどだから、けしてきれいとは言いがたい生々しい描写も考えものだ。どうにも、イメージ的に脛の毛とカイワレがつきすぎて良くない。しかしながら、「脛の下から上に蟻走感がはしった」という導入の冴えは見事。加えて、同伴者が自走するベッドという発想もユニークで、彼の井戸は涸れるどころか、ますます漲ってくるようにさえ思われる。
賽の河原を経由し、死に場を求めて不気味にひた走るベッドの旅で、主人公は、同一人物と思われる三人の女性と出会う。「切れの長い、いまにもこぼれ落ちそうな下がり目」の女たち。トンボ眼鏡の看護婦(採血が趣味のドラキュラ娘)、ミニ列車に乗っていた少女、「お助けクラブ」の集金役の小鬼…。特徴は同じなのだが、少女だったり大人だったり、人間というよりも時々に姿を変える粘液性の物質のような女が、主人公の最後を看取るという筋書きに、公房自身の願望も読み取れるようで興味深い。そして、ここに至って、真の伴走者は彼女であったと気づかされるのだ。
死出の片道切符を手に、遊園地を巡るような展開。暗い予感に充ちたメリーゴーランド、とでも言うべきか。最後まで弛緩することなく一気に読ませる力作である。ただし、代表作を二、三冊読んで、彼特有の異空間に馴染んでから手に取らないと、毒気に当てられるだけで、襞のように畳まれた深層まで味わうことはできないだろう。

『美味礼讃』 海老沢 泰久

フィクションであるとしながら、モデルとなった人物の実像に限りなくせまる語り口。『ただ栄光のために』『監督』でその筆力は実証済みであるが、本書は料理界の巨匠、辻静雄の半生を見事に描ききっている。
新聞記者から調理師学校校長への転進。
辻静雄は、フランス料理を教えるべき人材が皆無に等しいこの日本から、未知の味を求めて欧米に旅立ってゆく。
傍目には食べてばかりの羨ましい生活、だがそれは「食べる」という楽しみを放棄した苦行に他ならなかった。今でこそグルメ志向、多国籍料理がもてはやされているが、彼以前にフランス料理はなく、現代の百花繚乱ぶりは、彼が道を拓いたと言っていいだろう。
本書は第一級の教育書であるとともに、成功へのハウツウ物としても楽しめる伝記小説である。
「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」「ランチの女王」「どっちの料理ショー」、辻調グループが手がけた番組はまだまだ数知れない。彼が育て上げたほんの一端であるということも書き添えておく。

『黒死館殺人事件』 小栗 虫太郎

ソフィスト学派を思わせる詭弁と衒学的饒舌。それだけで一編が成り立っていると言って過言ではない。
たとえば、久我鎮子(図書掛り)と法水麟太郎(刑事弁護士)の丁々発止たるやりとりの場面、ふたりの超人的博学ぶりには驚かされるが、それでいてちっとも現実味がなく、荒唐無稽な理屈をあっちこっちに転がしているような印象さえ受ける。
法水の推理は、何度も真相に近づくと見せては離れ、周りの人間を惑わせる(辟易させると言うべきか)。しかも、長広舌のすえに、結論を投げ出すような言動を繰り返すものだから、自然と読み手のイライラも募ってゆくのである。
『黒死館殺人事件』は、奇書というより難書であると私は思う。最後まで読み切るコツは、多少の矛盾には目をつぶること、それなりに学識のある偏執狂の夢物語りだと思って、まともに読まないことである。
密室トリック、立ちのぼる屍光、早すぎた埋葬、足跡の偽装など、推理小説のエッセンス満載の本書ではあるが、はたして文学的価値となるといかがなものだろう。評論家間で評価が二分されているという点は、『ドグラ・マグラ』や『虚無への供物』と共通する特色でもある。周囲の評価はさておき、虫太郎にとって、小説を書くこと自体が幻惑的なゲームであり、言葉を弄ぶ愉悦に浸っていたのではあるまいか。
とは言いながら、この作品には抗し難い魅力があるのも否定できない。読み進めるだけであっぷあっぷしている神経を、またペダントリーの洪水に放り出したくなるような、そんな感じがある。江戸川乱歩の言を借りれば、「子供っぽい機構である為に、具体的記述の照射に耐え得ない」作品ではあるが、黒死館という異空間の構築には成功したようだ。ひんやりとした洋館のたたずまいに加えて、死体に浮かび上がった紋章や、驚駭噴泉の虹など、その描写は無機的な美しさで統一されている。登場人物に、血の通った人間の温かみが感じられず、小道具にいたるすべてのものが、作者の意のままに動く自動人形であるかのような錯覚を覚えるのだ。架空に徹すれば、非現実的という傷は当然の帰結である。昭和初期の作品でありながら、現代的な要素が色濃く、それでいて中世西洋の雰囲気を醸し出している特異性は着目すべきところであろう。

『項羽と劉邦』 司馬 遼太郎

始皇帝の死後、秦朝崩壊期に現れた時代の寵児、項羽と劉邦。
二人の人物対比もさることながら、脇役たちの描写がそのまま、司馬流人間学になっているところが興味深い。秦朝に巣食う害虫、宦官の趙高。項羽の側近であり知恵袋である范増。反乱軍を幾度も敗走させた常勝将軍、章邯など、彼らの一挙一動に光りを当てた構成が、この物語にいっそうの深みを与えている。
劉邦は、いくさ下手で危なっかしく、周りが思わず手を貸したくなるような愛嬌のある人物。喩えるなら、人を受け入れる寛やかな器であり、中身は無に等しい。だからこそ、後に参謀となって支える張良や、蕭何、韓信らが吸い込まれるようにしてその幕営に身を投じたのである。片や項羽は、勇猛果敢で華々しい英雄そのもの。自らが一個の存在として完結していたところに、最大の欠陥があったようだ。本書は上中下の三巻よりなるが(新潮文庫)、項羽と劉邦に関しては上巻でほとんどその人物像を描き切っていると言ってよく、むしろ全巻に散りばめられたさまざまな挿話(韓信の股くぐり、紀信の悪口癖など)に、人間というものの十人十色のおもしろさを見出すであろう。個人的には、張良子房の怜悧で涼やかな風姿と、型にはまらない自在な発想力に惹かれた。
それにしても、生まれ持った性癖は容易には変えられぬものらしい。詰めの甘さを幾度諌めても、項羽は態度を改めず、范増は歯噛みするばかりであった。「こういうお人なのだ」と欠点も無能もすべて受け入れた張良の高祖操縦法≠ニは、好対照である。
時代が大きく変動するとき、知的好奇心も刺激されて絢爛たる隆盛期を迎える。儒家や道家、さらには兵家、縦横家の繚乱ぶりはこの頃がピークであった。あとがきにおいて著者は、後漢以降の知的停頓を嘆いている。

司馬遼太郎の世界

『義 経』 司馬 遼太郎

きらびやかな伝説とは一味違う、司馬版義経がユニーク。
弁慶と出会った五条大橋の逸話も、衣川での最期も、ここでは描かれていない。軍事の天才でありながら政治的痴呆であり、稀代の色好みでもあった義経の、およそ伝説とはかけ離れた人間性を無慈悲なほどに描き切っている。魅力溢れる主人公を、綺羅星のごとく世に送り出した司馬文学ではあるが、この作品は少々異質である。頼朝の小心と妬心、後白河法皇の狡猾と悪趣味など、人間のいやらしい部分を押し広げるような筆致は、例外的でさえある。滅びゆく「あわれ」すら感じさせない義経像は、塗り替えられてきた歴史の塵を払う行為と取れなくもない。こうあってほしいという理想像ではなく、おそらくこうであったであろう姿を追求する基本姿勢が、そこにはあるようだ。
そもそも義経と頼朝とでは、拠り所とする立ち位置がまるで異なっていた。平家討伐の一事にしても、義経にとっては亡父の敵討ちでしかなく、頼朝にとっては鎌倉体制を築くためのもの、言い換えれば、天皇(京)と行政を切り離す最初の事業であった。組織の創始者としての遠謀がそこにはあり、リーダーとしての資質も、変革者としての資質も充分備えていたと言えるだろう。片や、「あれはみなわしの指図で勝ったことだ。そのことを鎌倉はわかっていない」と、肉親の情に甘ったれるばかりで、軍功をひとり占めにしようとした義経の凋落は、おのれの言動が招いた当然の結果であった。これまでの美々しい虚像は打ち砕かれたが、人心を掴むことの難しさ、うわっつらの人気や同情だけでは生き残れない、熾烈な武士の世を垣間見た思いである。

『匣の中の失楽』 竹本 健治

『虚無への供物』へのオマージュとして提出された本書。7月12日で完結した『虚無…』を引き継ぐように、7月13日の描写からはじまり、それだけでも著者の心酔ぶりが窺えるというもの。
1、3、5章がひと続きの物語となっていて、2、4章はその劇中劇として挿入されている。それゆえ、奇数章で殺された男が、偶数章でぴんぴんしていても矛盾はないのだが、読む側はいつの間にか現実と虚構の巧みな網目に引っかかり、立ち位置を見失ってしまう。言ってみれば、夢から覚めたつもりが夢の中で目覚めたに過ぎず、虚構の海を彷徨うような、そんなイメージだ。この混乱は、現実(あくまで小説の中の現実だが)に起きた事件を推理するために、劇中小説である『いかにして密室はつくられたか』を拠り処としていることからきている。先行する小説を、現実があとから追いかける逆転現象に、すっかり懐疑的な気分に陥った登場人物たちの思考は、犯人捜しからワトソン捜し(騙されているのは誰か)へと移行してゆく。
鍵となるのは「人形」と「さかさま」という言葉。たとえば、登場人物の「根戸真理夫(ねどまりお)」は、マリオネットをもじったものであり、「黄の部屋」に飾られた人形たちは、そこに集う生身の人間たちを、目に見えぬ糸で操っているかのようだ。だが真の人形遣いは、小説の書き手であるナイルズ少年でも、最初に死んだ曳間でもない。読み手の心理まで操る竹本健治本人なのである。
衒学的な要素は『黒死館…』を、深層に潜む狂気は『ドグラ…』を想起させる、マニアにはたまらない一冊。三大奇書の薫陶を受けた快作ではあるが、ジンクスの定石通り、この処女作は越えられない壁となって、今なお作者の前に立ちはだかっている。

『アルジャーノンに花束を』 ダニエル・キイス

知らなかったからこそ「幸せ」でありえたチャーリー。手術後知性を得たことで、人間の内面に潜む醜さを知ってしまう。
最初の文章のたどたどしさは、そのままチャーリーの低い知能レベルを示している。幼稚ではあるが、温かみのある人柄が滲み出ていて、術後の理知的な文章と対照的。自我の目覚めと性欲の自覚、その描写が見事であり、行為する自己とそれを見つめる自己の対峙が、チャーリーの成長ぶりを窺わせる。
後半、脳の退化に怯え苦しむさまは、万人に共通の「老い」への恐怖にも似て興味深い。人の一生を凝縮したような軌跡の末、純な心を取り戻したチャーリーの、最後の「けいかほーこく」が哀しい。
長編はちょっと…という方には、その原形である中篇版『アルジャーノンに花束を』(『心の鏡』収録)もあるので、ぜひ一読を薦めたい。

『白 仏』 辻 仁成

「人は死んだらどこさん行くとやろか」…それは誰しも一度は立ち止まる命題である。しかし古今東西、いったい誰が適切な答えを見出せたであろう。
魂は存在するのか、輪廻はあるのか、死への漠然とした不安、好奇心が、しだいに生々しい恐怖として身に迫る、心理描写の妙。
主人公である鉄砲屋の江口稔は、五歳の時初めて人間の死を目の当たりにする。火葬場から昇る紫の煙を見つめながら、今まで存在した者が無に帰する不思議を思い、言いようのない怖れを抱く。彼はまた、初恋の女性を失い、美しい顔や肉体が地下で腐乱するさまを想像しては悲嘆にくれた。人はどこから来てどこへ行くのか、その問いかけに出口はみえない。
戦地での極限体験、父母の死、親友の自殺。多くの死に接し、やがて六十六歳になった稔は、島中の死者たちの骨で白仏を作ることを思い立つのだが…。 過去を生きた人、未来を生きようとしている人、皆が一つになることで、生死の根源に回帰するのが人間の幸福であるという、作者独特のメッセージがその底流にある。『ピアニシモ』『母なる凪と父なる時化』という初期の作品と比べれば、一段と深化練熟の感あり。
1999年度フェミナ・エトランジェ賞受賞。

『虚無への供物』 中井 英夫

『ドグラ・マグラ』(夢野久作)、『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)と並ぶ日本三大奇書のひとつ。
さまざまな色彩のヴェールが、この作品を覆う仕掛けの役割を担っている。まずは殺人現場となった氷沼家の部屋(赤の部屋、緑の部屋…)、登場人物の名前(藍ちゃん、紅司、蒼司、橙次郎…)、目黒不動を始めとする五色不動縁起。一種の花には青・赤・黄の三色が揃うことはないという自然界の法則。そして誕生石。読み進めるにつれ、原色同士がぶつかり合い、反発し合って互いに毒を吐き出しているような、そんな不快感を覚えることとなるだろう。
トリックと符号暗号の乱痴気騒ぎ。二転三転どころか、何度も変容する事件の全貌。食傷でげっぷが出そうだが、作者はどうしてここまでする必要があったのか。どうやらそこには、中井英夫独特の含み≠ェあるらしい。最後のくだりで、トリックも推理合戦も、現代という爛熟期の虚しい手遊びに他ならぬ、という主張が浮かび上がってくる。現実の犯罪はもっと微妙で複雑なもの、異質なものであって、享楽的で趣味的な推理小説なんぞは、ほど遠い代物なのだと彼は言いたいのである。つまりは推理小説のアンチテーゼとして、ここまでギトギトに塗り固める必要があったのだ。反推理小説として差し出された本書、一歩間違えばとんでもない迷路に迷い込むこと、請け合いである。

 「虚無」へ捧ぐる供物にと美酒すこし海に流しぬ(ポール・ヴァレリー)

 『匣の中の失楽』

『リミット』 野沢 尚

すでに脚本家として活躍する著者が満を持して放った、ミステリー小説の意欲作。
誘拐されたわが子を救い出すため、必死に追跡する女刑事有働公子。中学教師という経歴がありながら、連続誘拐、臓器売買に手を染める冷血の美女、澤松智永。
子宮でモノを考えるという性(さが)に、ともに衝き動かされながら、その人間性は対照的である。満身創痍となって犯人に迫る公子と、子を宿したことで母性愛が芽生え、しだいに心の均衡を失ってゆく智永の対決シーンは、壮絶というより悲痛でさえある。
おそらく映像化を意識したであろう、著者の意図が見えなくもないが、脇をかためる登場人物も遜色なく、鮮烈な色彩を放っている。

『閉鎖病棟』 帚木 蓬生

とある精神科病棟。ふとしたボタンの掛け違いから、普通の生活を奪われた人々が肩を寄せ合い暮らしていた。
由紀さんの健気さ、秀丸さんの優しさ、チュウさんの人の良さに心洗われる一方で、軌道修正できない卑劣漢、重宗の存在に憤りを覚えた。 とは言え、生きている価値のない人間として、重宗を制裁したことは正当化できない。
秀丸さんには、仲間を守るためだけではない、もうひとつの理由があったのである。病院で死に鳥にはなりたくないという、見えざる動機。 精神科病棟の体質を問う、作者のまなざしがそこにある。臭いものに蓋をするように、世間から隔離され、生きる意欲まで失ってゆく患者たち。
「病院はついの棲み家ではありません。渡りに疲れた鳥たちが羽根を休める杜でしかないのです」という秀丸さんの手紙が痛々しい。

『海鳴り』 藤沢 周平

家庭と仕事のはざまで苦悶する、現代の中年男性には大いに共感を呼びそうな作品。ただし、世の奥様方からは「糟糠の妻を裏切るなんてひどい、身勝手もいいところ」と、罵声を浴びせられるかもしれないが…。
仕事一途で走ってきた男が、ある日ふと立ち止まると老いがすぐそこまで来ており、何かし残したことがあるような、このままでよいのかという焦燥感にかられる。きらめくように満ち足りた晩年か、あるいは灰色の老残か。不出来な息子に、ひややかな妻、本書の主人公新兵衛は、辛抱しながら今の生活を続けることに、暗澹たる思いしか持ち得なかった。とは言え、し残したことが色恋沙汰というのも、納得のいかない話で、新兵衛にはもっと、仕事で踏ん張りを見せてほしかったような気がする。
藤沢氏は当初、新兵衛とおこうを心中させるつもりだったと述べているが、もしそのような結末なら、まるで違った読後感を抱いたであろう。禁忌を破ったものには、真っ暗闇の行く末が待っているだけだという、救いようのない昏さに覆われた作品となったに違いない。しかし実際には、なんとか江戸から抜け出して、二人で支え合いながら生きてゆきそうな、明るい余韻を残して締めくくっており、そのことによって、この小説は佳品となり得たように思われる。
天下国家を論じる司馬遼太郎と、市井の人々を描く藤沢周平については、よく比較されるところだが、片や「成功者の文学」と呼ばれ、片や「失敗者の文学」と呼ばれた、両巨匠の資質の違いを意識しながら読み進めるのもおもしろいだろう。

『蝉しぐれ』 藤沢 周平

「戦後突然、時代小説の質が向上した」とは丸谷才一の言である。思うにそれは、司馬遼太郎、藤沢周平という、まったく異質な二人の書き手が出現したこと、その一事に尽きるのではないだろうか。
その片翼を担う藤沢周平の代表作『蝉しぐれ』。まず、人物配置のバランスの良さに感心させられる。純真一途な文四郎、世故に長けた逸平と学者肌の与之助。性格も資質も異なる三人の友情を軸に、初々しい蕾のような娘ふく、寡黙に忠義を全うした義父等、絶妙のキャスティングをめぐらせ、不器用ながらも少しずつ成長してゆく青年の姿を追う。
圧巻はなんと言っても、父の遺骸を引き取る場面である。衆目に曝されるなか、暑さで喘ぎながら車を引く文四郎。屈辱と自負がないまぜとなった胸中は推して知るべしで、孤高とも言うべき陰影に縁どられている。
藩の世継ぎ問題、主権争いに、剣の修行を絡めて、作為を感じさせない流れるような文脈はさすが、手錬れの物するところ。長い年月を経て、おふくとの再会(逢瀬)を果たした最後のくだりも、せせらぎの調べにも似た、しっとりとした情感に溢れている。
解説で秋山駿が述べているような、西欧的近代文学のイメージは、残念ながら私には感じられない。読書体験がまだまだ不足しているからなのか。再読、再々読によって、あるいは他の藤沢作品に触れることによって、はじめて見えてくるものなのかもしれない。
蛇足だが、海坂(うなさか)藩、五間川、染川町など、これらの地名はすべて作者の創作である。作者は命名の才も持ち合わせているらしい。羨ましい限り。
もうひとつ余談。山形県の同じ旧制中学で、藤沢とほぼ同時期に学んだ人物に、丸谷才一、渡部昇一がいる。

丸谷才一的空間

『三屋清左衛門残日録』 藤沢 周平

隠居してなお周りから必要とされ、頼りにされる主人公。たいていの場合「われわれが解決しますから、どうぞゆるりとご見物を…」と釘をさされるのがオチであるが、そこは清左の、これまで培ってきた経験と冷静な判断力の賜物、時折老いの寂しさに揺れながらも、しっかりした足取りで歩んでゆく姿が印象的である。
悠々自適の定年後を思い描いた筈が、することもなく気力も衰え、ボケの一途を辿るという話をよく聞く。人間の成長にここで終わりということはなく、死が訪れるそのときまで、力を尽して生き抜かなければならぬ(早春の光)と、作者は本書を通して呼びかけている。中風で半身不随となった友人平八が、歩く習練を始めたとき、感動をもって見守っていた清左。その温かなまなざしはそのまま、藤沢氏からわれわれに送られたエールと受け取れよう。おのれの不遇を逆恨みした金井奥之助、権力に未練たっぷりな朝田家老、これら負の人物像は、一歩間違えば誰もが嵌る落し穴を示唆しているようだ。「四十を越したら、自分の顔に責任を持たなければならない」という言葉がふとよぎる。どのような人生を歩んできたか、その人の中身が年齢とともに顔に表れると言うが、主人公と他の登場人物の、刻印のごとき貌(かお)の相違に、読み手は動揺を覚えずにはいられない。

『テロリストのパラソル』 藤原 伊織

事故とは言え、爆発事件に巻き込まれた過去を持つ、アル中バーテンダー。新宿中央公園で起きた爆弾テロによって、二十年間の封印が解かれてゆく。学生運動全盛期、あの東大闘争をバックに展開される、菊池、桑野、優子の三角関係が物悲しい。
政治性を伴わない暴力行為はテロとは呼ばない。物語中の二つの爆発事件をテロと呼びうるか否か、大いに疑問である。
また、偶然が重なるにしても、作中の鍵となる人物が、あの日あの時刻あの場所にほとんど居合わせるという、いかにも作り物めいたセッティングはいかがなものか。フィクションだからこそ、リアリティを大事にしたい。ワープロさえ触ったこともない男が、いきなりパソコンのネットを検索できるだろうか。しかも舞台の設定は1993年、WINDOWS95以前の操作は至難の業と言えよう。加えて優子の娘、塔子。あれほどこなれた21歳が、果たしてこの日本に居るだろうか。言動から浮かび上がる面影は、どう見積もっても三十前後。重箱の隅をつつくようだが、道具立て一つにも注意を払いたいものだ。が、多少の難に目をつぶれば、ぐいぐい惹きつける筆力はさすがに、乱歩賞・直木賞のダブル受賞作品である。
若者は、常にどの時代においても、おのが血気を持て余す。幕末の志士しかり、学生運動しかり。現代の若者が、その血気をどこに向けて発散させるのか、読み進めながらそんなことが気になった一冊である。

『夏姫春秋』 宮城谷 昌光

風伯をその体内に宿す絶世の美女、夏姫。彼女の肌膚に触れた男は、残らず非業の死を遂げた。舞台は古代中国。神々の声に吉兆を問う、アニミズムが色濃く残っていた時代であった。呪われた運命に、翻弄され続けた夏姫の春秋(年月)を辿る。
多くの男たちが、神々しいまでの美貌に惑わされるなか、ひとり巫臣だけは違っていた。「ところで、あなたはどなたですか」と、夏姫の後ろに見え隠れする清温な童女に呼びかける巫臣。彼によれば、男たちは夏姫の外貌だけを愛で、その心を見ようとしなかった、その心を愛した自分こそ、夏姫を救えるただひとりの男である、というのである。かなりの自惚れだが、彼の深謀は、けして熱に浮かされたものではなく、冷静な思考の中から生まれたものであった。
巫臣(ふしん)のふは「巫」(みこ)、神に仕える、という意である。彼は、生まれたままの「魄」(陰)の状態である夏姫を清め、「魂」(陽)を宿す儀式を施す。感情の襞を畳み込み、かつて、本当に笑ったことがなかった彼女に、初めて光り輝く笑みが浮かんだ。夏姫の視界から、長い間立ち篭めていた暗雲が消えた瞬間であった。
稀代の悪女と評された夏姫を、これほどさわやかに描ききった作品は、今まで存在しなかったのではないだろうか。歴史の定説を覆す冒険に、著者は敢えて挑み、そして成功している。中盤は晋、楚、鄭、陳という列国の、戦と駆け引きの描写に多くの紙面が裂かれ、夏姫からかけ離れた感もあるが、それも「傾城」であるがゆえんの波紋の大きさと、解釈できる。読者の想像力を刺激し、史実にふくらみを持たせる歴史小説は、思いのほか少ない。本書は、その数少ないうちの一冊であると確信している。

『国境の南、太陽の西』 村上 春樹

『ねじまき鳥クロニクル』が誕生する過程で産み出された、副産物的作品。『ねじまき鳥』の複数章を「外科手術をするみたいに切除した」(解説)ものであるにもかかわらず、独自の人格を所有するに至った本書と、本家『ねじまき鳥』を読み比べてみるのも一興だろう。
ひ弱でわがままなひとりっ子であることに、ある種の引け目を抱いていた主人公ハジメ君と、五年生の終わりに転校してきた島本さんとの出会いから、この物語は始まっている。生まれつき脚が悪く、ハジメ君以外、一人の友達も持ち得なかった島本さん。片や、漠としてとりとめもないが、明らかに何かが欠如しているハジメ君。この二人の共通項は、「ひとりっ子」であり「欠落」であった。彼の個性≠敢えて表現するなら、世俗的な物事に対する執着心のなさ、現実感の希薄さ、加えて、自分の感情には極めて忠実である反面、他者には無邪気なほど残酷、ということであろうか。
二十年もの歳月、彼は島本さんに固執し続ける。その間、自分を通り過ぎて言った女たち、イズミやイズミの従姉の記憶を後方に置き去りにしながら。しかし、可愛らしさを完全に失った、亡骸のようなイズミの噂を聞き、彼の心は微妙に軋み始める。それまで思い出すことさえなかったイズミの幻影が、輪郭と重みを持って圧し掛かり、思うままに生きることはすなわち、誰かを傷つけることだと気づく。気づいた上でさらに、妻有紀子をも切り捨てようとする身勝手さ。妻を愛してはいるが、自分の欠落を埋めるべき存在ではないというわがままな理屈も、島本さんの失踪で空転。結局は有紀子のもとへと戻ってゆく。
独り言は饒舌、しかし他者との交信はしどろもどろのハジメ君が、「口唇」によるコミュニケーション(性的な意味合いで)を確立できたのは、イズミと島本さんの二人だけ。彼女たちの潜熱、負のエネルギーのみが、何らかの変化をハジメ君にもたらし、彼を根幹から突き動かすことが可能であった。島本さんをハジメ君の分身、イズミを島本さんの代用、ダミーと考えるならば、ハジメ君=島本さん≒イズミという等式が成り立つ。本来は自分の一部であるべきもの、分離した片方(かたえ)を求める行為は、恋というより自己完結への道程と言えるのではないだろうか。妻をはじめ多くの女性たちは、相容れない別の個体であって、彼の対極に位置する。だからこそ、恋愛も成立し、大事な存在ともなりうる。イズミはもともとそんな女性たちの一人に過ぎなかったが、ハジメ君によって大きく損なわれ、空洞を抱える存在となった。言わば彼と同極の、こちら側の人間となったのである。姿を消した島本さん、おのれの影のようなイズミ。ハジメ君は永遠に自分の片方を失ってしまったのだ。
「国境の南」には、心躍る何かが待ち受けているかもしれない。だが「太陽の西」には、物事の終焉があり空虚が広がるばかり。「太陽の西」の静けさと平安。それは何かが死んでしまったその後の静けさに他ならなず、彼はそのことを充分に認識しながらも、誰かが体の栓を抜くまで、からっぽな自分を保持し続けなければならないのである。

『スプートニクの恋人』 村上 春樹

失踪と三角関係、村上春樹にとって重要な二つのモチーフがここにある。『ノルウェイの森』での僕と直子とキズキ、あるいは『蜂蜜パイ』での淳平と高槻と小夜子が、ここでのぼくとすみれとミュウ、と考えればいいだろう。ただこの三角形は、どの組み合せも成立しない。なぜなら、ぼくはすみれに好意を持っているが、すみれは同性であるミュウを欲し、ミュウはある出来事以来、性というものを一切受けつけない。つまり、互いの矢印が絡み合うことのない三人なのである。
観覧車に閉じ込められたミュウが、自室で淫らな性交にふける自分自身(ドッペルゲンガー)を目撃するという、異常な体験。それがミュウの「ある出来事」なのだが、以来、彼女の肉体と精神は、あちらとこちらに分離してしまう。ミュウが自分を拒否するのはレスビアンを嫌悪するからではなく、あちらの世界のミュウが、性欲を根こそぎ持って行ったせいではなかろうか、とすみれは考える。そしてある朝、あちらの世界のミュウを求めてすみれは消えた。
最終章をどう読むか。すみれは本当にこちらの世界に帰ってきたのだろうか。表面上はそんな雰囲気を醸し出しているが、どうも違うような気がしてならない。「ぼくらは同じ世界の同じ月を見ている」の「同じ世界」とは、あちらの世界と受け取ることもできる。井戸の側壁をすり抜けた『ねじまき鳥クロニクル』での岡田トオルのように、ぼくはあちらの世界へ繋がる壁を、あるいは門を、通過したのではなかろうか。念を押すまでもないが、あちらとこちらの分離と交流は、村上ワールドにとって重要な、第三のモチーフでもある。
ここでヒントになるのが、作中で引用されている中国の古い逸話。温かい犬の血を注がなければ、「門」は呪術的な力を得ることができないというそれを、すみれの傷心に置き換えてみたらどうだろう。「人が撃たれたら血は流れるものよ」…つまり、すみれは血の洗礼によってあちら側への割符を手に入れたと考えられないだろうか。そしてまた「ぼく」も、すみれの失踪によって血を流し、それを手に入れたのだと。

 「それからぼくは指をひろげ、両方の手のひらをじっと眺める。ぼくはそこに血のあとを探す。でも血のあとはない。それはもうたぶんどこかにすでに、静かにしみこんでしまったのだ」

『ドグラ・マグラ』 夢野 久作

「これを読む者は、一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書」という謳い文句に惹かれ、怖いもの見たさで本書を手にとる人は案外多いのではないだろうか。しかし、哲学書のような難解さと、複雑に交錯する四次元的場面設定に、かなりの苦戦を強いられること、覚悟されたい。エンディングで事件が解決する、いわゆる推理小説の爽快さはあまり期待できない。読了後、ますます混迷を深めること必定である。
―脳髄はものを考えるところにあらず― ではどこでものを考えるのか。それは身体を構成する一つひとつの細胞であると本書は言う。細胞という記録装置が十ヶ月にわたって胎児に見せる夢は、微生物から魚類、爬虫類へとわれわれが進化した過程と、人としての転生の記憶である。天地開闢以来、細胞に刻まれてきたあらゆる苦しみと喜びを胎内で追体験し、オギャーと産まれた瞬間に全てを忘れるというのである。読み終えて、この本がまるごと胎児の夢ではないのか、という疑念に捉われた。そして自分もまた、おのれの系譜をたどる夢の中にいるような、そんな錯覚を覚えるのである。
繰り返すが、この物語で展開される脳髄論は非常に興味深い。かのエデンの園でイブをそそのかしたサタンの蛇が、頭蓋骨の空洞にとぐろを巻いて潜み隠れたもの、それが脳髄だというのだから、昭和初期の作家とは思えぬ、なんとも奇抜な発想である。脳髄の奴隷となっていながら、自分の意志で行動していると勘違いしている、人間のオメデタさ。全人類が狂気のサタよと言いたげな文脈には、作者特有の皮肉が散りばめられているようだ。ちなみに「ドグラ・マグラ」とは、長崎地方の方言で切支丹伴天連が使う幻魔術を指す。妖しげな語感が作品全体の「ど暗真っ暗」なトーンとなって、読む者を巻末へといざなう。

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大岡昇平『野火』の世界