1 昇殿
2 白拍子
3 鹿ケ谷事件
4 西光と成親
5 重盛余話
6 俊寛
7 有王
8 後白河法皇
9 頼朝挙兵に
10 清盛反省
11 清盛の最期

平家物語

平家物語
徳川家康
織田信長
豊臣秀吉

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 祇園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり  沙羅双樹の花の色  盛者必衰の理を顕す
 驕れる者も久からず  春の夜の夢の如し  猛き人も遂には滅びぬ  偏に風の前の塵に同じ


 なんとすばらしい語調のきれいな。“鐘の声”をアントニオ省三なら“鐘の音”なんてやったと思います、それじゃ味がないですものね、とにかく素晴らしい。
 どんなに権力をほこった人でも、どんなに英雄であった人でも、永く栄えたためしはなく、その生涯は春の夜の夢、風の前の塵に似ているといっているのです。
 平家の政治も清盛の父、忠盛までは何とかよかったんですが、代が清盛に代わってから政治がおかしくなっちゃたのです。
 この美しい仏教深い”祇園精舎の…”は何時ごろできたのでしょうか、清盛の時代が終わってからか、あるいは忠盛の時代か、は不詳といわれております。実はずっと後あとで、江戸時代に出来たものとアントニオ省三は説きました。江戸時代に入ってから、それらしい資料の中に、手を加えて出来上がったものです。この名文を完成させた歴史家や作家たち、そういう学者さんたちで、当時のご家老様、水戸光圀さんがそれらしいお方たちを150人ほど集めて。
「後世の為に、歴史というものを作り残しなさい、助さん、女の尻ばかり見ていないで手伝いなさい、格さんも」
 そして出来たのが、『大日本史』です。
 水戸のご老公も、テレビで観る様に全国を遊んで歩いていたばかりではありません。
 余談になりますが、水戸黄門をテレビでみていると始まって20分経った頃、
「越後の縮緬問屋の光右エ門じゃ」と、嘘をおっしゃる。40分ほどすると悪党どもとやりあうんですよね。はじめから「水戸の光圀じゃ」と言っておけば無駄な斬りあいをしなくてもいいのに。長くても3分間、3分間も動くと疲れてきて。
「助さん格さんもうよかろう、」
 ふうふうふう言って黄門さん。
 すると格さんは。
「え〜い静まれえ〜静まれえ〜」
 というと、散らばっていた悪人どもは、「はっ静かにしなくっちゃ」と黄門さんの前に集まり、良い子になって整列する。
「この紋所が目にはいらぬか〜っ」
 と言うと、ちゃんと整列して光圀さんの前でお話を聞くんですよね。元々はいい子だったんですよ。
 子供までその御紋を知っているらしく、ただのたばこや薬入れではないことを知っているんですね。 
 本当に余談で失礼しました。

 嘘でも面白く書いたその150人の中から5人が選ばれまして、光圀の前に。
「そちたち、たいしたものじゃのう、よくもこんなに嘘をうまく書けるものじゃのう、天晴れなやつらよのう、そちたちに褒美をとらすぞっ」
 といって、金100両、土地100町、品物も小型トラック2台分(牛車で8台ほどあったといわれていますから、換算をして…)が与えられました。
 またまた余談になりますが、そのお方たちは大金が入ったものだから仕事をしなくなった、弟子を雇い、それまではお酒はやらなかったんですが、仕事は弟子に任せて昼間っから呑み歩くようになった。しまいには、いまでいう『アルコール依存症』になってしまい、肝臓を破裂させて死んでしまう者までいた。
『驕れる者久からず』とは、真に自分たちに言うことばを作ったわけです。ほんまに天晴れな学者さんたちもいたものですね。

 真面目に物語は展開してゆきます。
 @ 昇殿 
 平家に「昇殿」が許されたのは。清盛の父、忠盛公のときだった。昇殿というのは、天皇の住む清涼殿に入ることが許されることで、位は五位以上。これらの人びとを〈殿上人(でんじょうびと)〉という。今で言う国会議員くらいかな…。殿上人となってはじめて大手を振って歩けるものだった。
 忠盛に昇殿が許されたのは。忠盛が、三十三間堂を作って一千体の仏像を安置したからだった。
 忠盛は真面目で、国民からも信頼されていた人。現代版では、お隣の某国みたいに、国民の前で鷹揚に手を縦に叩いている、血圧と血糖値の高そうなお方…とは反対のお方だった。
 忠盛の昇殿を喜ばなかった者もたくさんいた。
 ある夜のこと。宴会の席に向かう忠盛を襲う計画が立てられていた《殿上夜討ち》である。しかし、これが忠盛に知られた。忠盛は、宮中では帯してはならない刀を(木刀に銀箔を張ったもの)着物の内に隠して宮中に向かった。
 話は長くなるので…―。
 結局は防備のための見せかけの刀で、本物ではなかった、ということで。忠盛の知恵に上皇は益々信用を厚くするのである。


 A「白拍子
 さてはて、忠盛の息子の清盛はと言えば。剛毅な反面、傲慢で人を人とも思わない、すっかりおごりたかぶり、西八条付近に贅沢な別荘をもうけ気ままな暮らしをしていた。
 清盛には時子という正室のほかに何人かの側妾がいた。その中でも18才になる白拍子の「妓王」をたいへん愛していた。妓王には17才になる妹と44才になる母がいた。生活費はもちろん清盛から送られていた。
 ある日のこと妓王は、弟子である仏御前という白拍子を清盛のところに連れて行き、芸を見て欲しいと頼んだ。これがいけなかった。
 清盛はすっかりその仏御前が気に入り。
「妓王を早く追い出せ、今からこの仏御前が妓王の代わりじゃ」
 なんと身勝手な清盛であった、トランプさんみたい…。
 妓王親子は悔しさでいっぱいだった。 間もなく妓王親子は出家をし、嵯峨の山奥に小庵をつくって、念仏三昧に暮らし始めた。
 ある夜こと、念仏を唱えているときだった。網戸をたたくものがあった。強盗かもしれない、と思い用心しながらそっと戸を開けてみると、一人の女が立っていた。
「あっ
仏御前、」
 清盛の妾になったはずの、あの仏御前だった。
 仏御前は。
「過ぎたことを申すようでございますが、申さなければ、人の世の道理も知らぬものになってしまいます」
 仏御前は涙を拭きながら言った。仏御前は親子3人のことが気になっていたのだ。
「人の噂で尼になっていることを知り、この世の栄華は夢また夢、自分も身のあわれさをさとって」
 そういって仏御前は頭の布をとった。
「ああっ」
 3人は驚きの声を上げた。仏御前は、女の命である髪をすっかり落としていたのである。
 妓王の母は。
「あなた様の変わったお姿をみてなんの恨みがありましょうぞ、わずか17才の身で浄土を願うとは」
 それから4人はいっしょに念仏を唱えて暮らすことになった。


 B 
鹿ケ谷事件

 平家反クーデターを行綱が清盛に密告する。現代でもよくあるね、内部告白したり、密告をしたりする。また、会社をやめるときに、散々仲間や上司の悪口を言う人がいるが。
 行綱とて例にみない。自分も反平家クーデターに加わったわけだが、密告によって、罰はなかったが、浮かび上がるわけはなかった。
 この件では重盛が中に入っておさまった。重盛は清盛の子で平家一の優れ者、清盛が一番かわいがっていた。


  C西光と成親
 西光と成親は、反平家クーデターに加わったうちのふたりで、清盛に捕らえられた。清盛の拷問に西光は、
「これまでのし上がってこられたのは誰のおかげじゃ」
 と、豪胆で不敵で清盛にたてをつく。清盛もこの言葉にはすぐには返答は出来なかったが。
「こいつの首はすぐに斬るでないぞ、もっと拷問をして、企ての様子を白状させてから川原に引いていって首を刎ねるのだぞ」
 このあと西光はその通りに始末される。
 一方成親は、清盛の息子重盛の義兄。清盛の息子の重盛は、たいへん賢く、平家では一番の信望があった人で、清盛もその才能を認めていたし、清盛は、可愛くも思い、一目も二目も措いていた、ゆえに成親には、手荒なことはできない。牢獄生活で命だけは助けていた。このことが重盛の耳に入った。重盛は清盛の前で。
「助けてやってほしい」
 と頼み、出獄がゆるされるのですが。清盛は腹の虫が治まっていない。家来に命じて成親を斬らせてしまう。このことを重盛は、のち後まで知らなかったことである。


 D 重盛余話
 重盛は、清盛の正室の腹ではなく側室の子だった。重盛のなきあと、その子の維盛が平家の当主にはならず、重盛の弟の宗盛がその後を継いだのも、この関係からだったと思われる。
 宗盛は正室の子だったからだ。宗盛も維盛も文化人であったが、優れた武将ではなかった。もし維盛が平家の当主になっていたとしたら。平家の哀運は、挽回できるどころか、もっと早くその終わりが来ていただろう、重盛が文化人ではないと同時に、優れた武将であったことは保元、平治の乱での彼の活躍ぶりが証明している。
 もし重盛が四十三歳という若さで死ぬことがなければ、平家は滅亡しなかっただろうという声が昔から絶えない。いかに政治家として全国民からの信望が厚かったかがうかがえる。
(平成23年6月に追加文) 
 最近の政治を御覧なさい。一国の大臣が一年足らずで交代をする、国民は政治家たちに選挙選挙で振り回されて。千年に一度の災害の時でも政権争い。ほんとに国民のことを考えているんであれば、今はお互いに協力し合う場合ではないんですか?。
 アントニオの居る八戸も大きな被害を受けていますよ。


 E 俊寛
 反平家クーデターで捕らえられた法勝寺執行俊寛、丹波少将成経、平判官康頼の3人は、鬼界ガ島に流された。
 鬼界ガ島は、住む人も少なく、住民は教養も低く野蛮な者たちばかりだった。穀類も作ろうとしない漁だけで命をつないでいた。
 流人となった3人のうち康頼と成経は、熊野神社に似た場所を見つけそこを参拝した。卒塔婆をこしらえて、1日もはやく本土に帰れるようにと祈り、海に流した。しかし、俊寛だけは僧都でありながらやけくそになって、
「神も仏もあるものか」
と、一度も参拝をしなかった。
 拾う神あり。毎日流し続けた卒塔婆は、瀬戸内海の厳島神社の浜辺に流れ着き、ある僧に拾われた。卒塔婆には。『薩摩潟沖の小島に我ありと親には告げよ八重の潮風』と刻まれていた。これが後白河法皇に、そして重盛に伝わった。重盛は父の清盛に頼み。
「何とか助けてやれないものか」
と訴えた。この話は都中に広がり、歌にまで作られた。

 清盛の赦免状をもった基康は5人の家来とともに鬼界ガ島に入った。
 俊寛は喜んで基康の持っている赦免状を読み始めた。しかし二人の名前があっても俊寛の名前が無かった 俊寛は、
「えええ〜嘘じゃ嘘じゃそんな筈はなかろう」
 といって赦免状を何回も読み返したが、2人の名前はあっても俊寛の名前は無かった。俊寛はがっかりし、へなへなと座り込んでしまった。俊寛は康頼にすがって泣きつき。
「せめて九州まででもいい、いやその手前まででもいいから、後生じゃこの俊寛をあわれと思って」
 しかし、傍の使いの者はお互いに首を振っている。
 船は俊寛を残して島を発った。夕方の海は船を小さくして行き、やがて水平線に消えていった。俊寛は船が見えなくなっても腰の辺りまで水につかり、子供のように泣きじゃくり、
「帰ってきてくだされ、我も連れて行ってくだされ、見捨てないでくだされ―っ」
 自殺しなかった心情はまことにあわれ、おろかなり、というほかになかった。

 あの〜勘違いして「良寛」だと思わないでください、中にはいらっしゃるんですよ。「良寛はそんな人物ではないぞ」なんて言う方も居ったりして。良寛ではなく俊寛ですよ。
 ある本には、成経と康頼が鬼界ガ島から帰るときには、俊寛は病気で亡くなっていた、という説もある。ところが次のFの話がある。歴史とはどうにでも…。

 F 有王
 有王は小さいときから、俊寛に可愛がられ育てられていた。
 有王は、流人が帰ってくることを聞き、俊寛も帰ってくるだろうと思っていた。だが、その中に俊寛が見当たらなかった。
 有王は鬼界ガ島に渡る決心をした。
 島に着いた有王は近くの者から。
「俊寛という僧都をご存じないか」
 と聞いたが、島の者は、口をぽかんと開けたままで埒があかない。数少ない住民はみなこんな者ばかりだった。
 十日目のことだった。浜辺をトンボのように痩せこけ、藻屑を着たような者の姿を見かけた。
 有王は声をかけた。
「都から来られた俊寛という僧都をご存知かな」
 すると。
「なっなにっ、俊寛とはわしじゃ、わしが俊寛というものじゃ」
 探し求めていた俊寛だった。
 俊寛の手から生魚と海布が落ちた。
「そちは、あ有王ではないか」
「御僧都様有王にございます」
 あぁ懐かし、と有王は俊寛にとりすがった。
「うっおっゲッゲ〜」 
 数年お風呂に入っていないので、体臭がすごかったんです。(ここは書かなくてもよかったかも知れません)
 俊寛は。
「あぁ夢ではないのか、現(うつつ)か」
「うつつでございます俊寛様」
 有王は俊寛様はどこか気が違っているのを感じた。気持ちを落ち着けて話しましょう、といったが俊寛は有王の話は空行く風。長年の島暮らしで気が狂ってしまい、ほどこしようがなかった。
 1ケ月後、俊寛は、その生を終えた。 
 有王は、お骨を持ち帰って俊寛の母に届けた。


 G 後白河法皇
 清盛は、後白河法皇も反旗したというので、筑後守貞能に言いつけ。
「後白河法皇にこの西八条にお越し願え」
 といった。言葉は丁寧だが、清盛だもの、たぶん法皇でも拷問するに違いない。家来たちはおそれながらも清盛には逆らえないので、鎧をつけ馬に鞍をおいた。そこへ清盛の息子、重盛が入ってきた。
 重盛はたいへんよく出来た息子で、清盛は一番可愛がっていたし、また、苦手ともしていた。
 清盛は重盛に言い訳ぎみに。
「真のたくらみは法皇様がなさったというのが分かった。法皇様を北殿かここにお移し参ろうかと思っているのじゃが、お前はどうか」 
 重盛は涙を流しながら言った。
「父上の運が傾きはじめたのでございましょうか、正気の沙汰とは思われませぬ」
 清盛にこれだけの口をきけるとは、皆は唖然として聞いている。
「世には、四恩というのがございます。天地、国王、父母、衆生、中でも重いのは国王の恩とされておりますが、父上には先祖にも例を見ない太政大臣という高位にのぼられ、それも恩恵でありましょう、この恩を忘れ法皇さまをお攻めなさろうとすることは神慮にそむくことになりましょう、もしこのことが実行されたとしたならば、重盛は役目によって法皇さまをお守りしなくてはなりません。皇室に忠を尽くせば親不孝になり、親に孝を尽くそうとすれば不忠の臣となり、ぁ悲しいかな」
 この重盛の考えていることに清盛は参った。
「いや、それが悪党どもがのう、法皇様をかついでなにかしでかすのかと心配したまでだ」
 と誤魔化すのが精いっぱいだった。
 それにしても重盛はなんと才知、温情、正義の人だろうか、本当の大臣とはこのような人を言う。

 神紙官が占いをした。その年に、俄に起こった烈風により牛馬の斃死や家屋の崩壊がひどかった。占いには、
「兵乱が起こる兆候あり」と出たのだった。
 重盛は、本宮の証誠殿でつぎのように祈願した。
『父、入道相国は民を軽んじ、しばしば万乗の君を悩まし奉る。
 身不肖にしていさめしも力及ばず。良臣孝行尽きて、志をとげること能わざるなり。
 南無権現金剛童子、重盛の命を召しますゆえ、願わくば父、入道の悪心を和らげ、
 天下の安静をもたらし給え』

 供の人々は一緒に祈願をしていたが、ふと不思議な光景をみた。主人重盛の着ているその着物が喪服のように見えたのだ。それから二日後重盛は病の床に伏した。侍臣たちは治療を薦めたが、重盛は。
「もう金剛童子にわしの願いが聞き届けられたようじゃ、医者を呼ぶには及ばぬ」
 と言って祈祷もさせなかった。
 数日後息を引き取った。


 H 頼朝の挙兵に。
 頼朝の挙兵に清盛は、禿げた頭から湯気を出して激怒した。
「助けた恩も忘れおって、うぬはなんたる外道」
 平治の乱のとき頼朝はまだ子供だったので、清盛のおばさんの、池の尼に命乞いで助けてもらった。
 早速頼朝軍追討の編成に取り掛かった。だが作戦会議は有利には進まなかった。源氏の士気はあがる。平家は士気沈滞していた。
 富士川近くに陣をとった平家軍は、酒を飲み、遊女たちとふざけながらも明日の戦いが気になっていた。夜半のことである。富士川沿いの水鳥たちが何に驚いたのか一斉に飛びだった。水鳥は何団にもできているもので、平家の兵たちには、まるで源氏軍の攻撃が波を作ったような攻め方をしてきたものと思い込み、慌てふためいて逃げ出した。矢を持ったものは弓を忘れ、弓を持ったものは矢をわすれ、馬の綱を切らずに鞭を入れたものだから馬は杭を回転し乗ったものは遠心力によって振り落とされる。これではウマくない(ここは駄洒落です)落馬したところを逃走する馬に頭を砕かれる始末。
 遊女たちは、戦いに関係ない。
「ばっか見たい」
 と、兵士がいなくなった後、皆んなで集まり残っている酒で酒盛りを始めたり、かるた取りなどもした。
 それと知らない頼朝軍は、早朝、攻撃準備万端。攻め込もうとしたが、
「平家の兵士誰一人も居りません」
 という知らせに、気が抜けてしまった。
 頼朝は川岸に本陣をすすめ、身を清めたあと、八幡大菩薩を拝礼し申し上げた。
「これはひとえに大菩薩のご加護でございます。頼朝身を謹んで源氏の再興に専念いたしまする」
 八幡大菩薩は源氏の守護神である。


 I 清盛反省
 重盛は逝去した。無限なる専横していた清盛も、重盛を失ってからは福原の別邸に引きこもるようになったが。人が変わったように、変な方向に横暴さが出た。高倉天皇の中宮である娘の徳子が産んだ御子を、天皇にすると言い出した、言い出したら誰が何を言おうということを聞かない。
 高倉天皇を退位させ、わずか3歳の御子を安徳天皇として皇位につけた。
 世の人々は驚き言葉を失った。しかしこのような横暴で独裁政治は長く続くためしはない。平家打倒の機運は次第に熟していった。
 平治の乱以後じっと陽の射すときを待っていたのが、源頼政である。慎重に慎重を重ね立ち上がるのである。


 J 臨終間際まで
 清盛の悪行はとどまるところを知らなかった。
 砦としている東大寺や般若寺には、源氏兵のほかに僧侶や稚児たち千人あまりがいた。
 清盛は、かまわないから焼き払えという命令を出した。
 これによって聖武天皇以来の金剛製16丈の大仏も火焔に落ちた。
 こうした仏敵行為を驚き恐れないものは無かった。
 清盛は翌年の2月、急に熱病に罹った。石の水槽に水を汲んで体をどっぷりつけたが、水はすぐに沸きあがって熱湯になった。それでも熱には水が一番なので、筧の水を引いてかけても水は玉になって飛び散った。
 このあたりは歴史は嘘っぽいことを証明している。いくらなんでもねぇ、“焼け石に水”みたいなことを人間が味わった〜? 続けます。 
 人々は、
「悪行の報いだ、仏罰てきめん」
 などとささやいた。
 清盛の北の方が、熱気に耐えながら枕元に来て、
「お命は長いとは思われませぬ、言い残すことがありますならばおっしゃってくださいませ」
 あんたはこれ以上罪を重ねないで早く死んだほうがよいですよ、と言っているんです。
 剛気な清盛も臨終を覚悟したのだろう、かすれた声で。
「保元、平治の乱よりこのかた…、恩賞を受け…、かたじけもなく…、太政大臣に成り……、」
 ここまでは人間らしいことを言っているが。
「ひとつ、心残りは…、伊豆国の流人…兵衛左頼朝の…、首を見られないのが、残念じゃ」
 と、臨終間際でも頼朝に敵対心は残っていたんです。すごい執念ですね、戦国武士はこうであったでしょう。
 この後、清盛は、悶絶死するのです。

 『平家物語』 終り
           
      最後までよんでいただきましてありがとうございます。

                                   源 義経物語