歴史は嘘っぽい 
   
    
源義経 物語

平家物語
徳川家康
織田信長
豊臣秀吉

 この物語はあまりにも巧く出来ている。私が小学生の頃、先生が社会科や国語の時間になれば、図書室からこの種の本を持っ来て読んでくれた。だから私は、社会科と国語の区別が分からなかった、笑ってしまう。
 その中で、この源義経が一番面白かった。従兄弟に、義経という名に似た(良経)子がいて、そいつはとても正義感が強く、自分より年上の子でも悪いことをすれば、そいつに注意する、言うことを聞かなければ、殴ったりしていた。
 社会人になってからも本屋さんで、義経に関した本が在ればすぐに買ってしまう。気がついたら八冊も溜まっていた。
 歴史はそのまま書いて伝える物であれば、面白くない。面白く書かなければ誰も読まないもので、歴史の本は嘘や装飾で出来ていると、私なりに思っている。
 8冊の本の中で、土橋治重さんの書いたものがおもしろかった。ロマンがあり、静御前との出会い、別れ、そして本妻や愛妾たちへかける愛情は、現代版の俳優で言うならば、故石原裕次郎さんや、現石田純一さんなどが義経をイメージさせる。
 真面目に歴史を勉強されている方には叱られるかもしれませんが、コメントを入れながら”歴史は嘘っぽい”を作ってみました。 お時間がありましたらお付き合いのほどを。 
 
 
源義経ってどんな人?
 平治の乱(平家と源氏の戦い)で源義朝が平清盛に敗れる。この時牛若は1才。兄弟には,今若、乙若がいた。母は九条院の雑仕常盤御前。
 清盛が源氏狩りをした。常盤は逃げ切れず、六波羅の清盛のところに自首する。日本には稀に見る美人だった常盤。清盛の愛を受けることになる。 引き換えに牛若たちは命を落とさずに済む。これが後に平家が滅びる元になる。女には気をつけよう

 牛若は鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗っていた。
 行商人の金売り吉次と出会う。吉次の勧めで奥州(岩手平泉)入りをし、叔父の藤原秀衡と対面する。再び上京し、兄の頼朝と対面する。兵を集め平家追討する。
 鵯峠、屋島、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させるのだが、部下の讒言から頼朝の追手が始まる。兄とは戦いはしたくないところもあり、ところどころの関所を破って追っ手から逃れ逃れて奥州平泉までたどり着く。
 途中愛する愛妾の静御前との別れを余儀なくされる。
 平泉に着き衣川の館を与えられ、落ち着いた暮らしが出来るかと思ったが、秀衡には死なれ、頼朝の好条件をのんだ秀衡の息子の泰衡に裏切られ、衣川の館で最期。奥方子供を殺し自害する。
 悲運の侍、義経に国民はひいきしました。ここから出来た四字熟語「判官贔屓」ほうがんびいき、です。
 例えば、大男と小男と相撲をとっていると、自分には関係ないほうでも、小男に勝ってほしい気持ちが出ます、これが判官贔屓です。日本人は皆本来このようなやさしい心を持っているのです。
 義経は強い父を知りません、母の暖かい懐も分からないまま、乱世に入っていくのです。そして兄の頼朝に疑いをかけられ、追われ、ついには自害するのです。
 国民は義経をあまりにも可哀そうに思い、架空の伝説を作ったのです。『ジンギスカン』は義経だ、とか、青森にいた、北海道で暮らしてた、なんていうことまで。八戸にもそれらしい話はたくさんあります。
 弁慶は力持ちで石に足形が着くぐらい力があったとか。それにしても、ここはまったくの嘘話です。
 義経には「杉目小太郎行信」という影武者がいて、つまり義経の偽物が北行したんではないかと、アントニオは思っています。平泉で義経は自害もしていない、とか死んだのは身代わりの「杉目小太郎」だったとか言っている作家もいます。これも何代か続く伝説の中で作家たちが勝手に作りあげたんではないかと思います。
 現代もおもしろい物や珍しいことが話題になり、平凡なことは話題になりません。歴史の面白いところは、装飾したものを読んでいるから面白いのです。だから八冊も買っている馬鹿(アントニオ省三)もいるのです。


 
主な登場人物    
源 頼朝  
 腹違いの弟は源義経。武略に優れている義経に天下をとられるのでは、という理由で義経を殺すよう命令を出す
源 義朝  
 義経のお父さん。平治の乱で平清盛に敗れる。奥さんは絶世の美人常盤御前,山本富士子さんより綺麗な方が日本に居たんですよ。
武蔵坊弁慶 
 母のお腹の中に十八ヶ月いたという。(この辺が歴史は嘘っぽいところで面白くしている)義経に最期まで仕える。八戸〜三厩〜北海道へ渡った、とも伝えられている。
鷲尾三郎義久 
 峠の坂落としの際の活躍者。「もっと安全で確かな所がありますからご案内しますよ」あの鵯峠から攻め下ったのではなく。峠から降りて裾の誰も通らないところを義久は知っていてた。
平 清盛  
 平治の乱で反対派の公卿を抑え源氏を破って太政大臣になる。スケベ根性を起こして敵の奥方に愛情をかけたが為、のちに源氏方に天下を渡すはめになる。熱病死する。
常盤御前  
 
義朝の奥方、義朝が妻を選ぶにあたり、1,000人の中から100人を選び100人の中から10人を選び、10人の中から選ばれたのが常盤であった。清盛が鼻の下を長くしたのも無理がない。女は歴史をも変えるというから読者も女には気をつけよう。
大津次郎  
 奥州落ちの義経一行を助ける。
梶原景時  
 平家追討合戦の作戦などで義経と意見が合わなかった。頼朝に讒言をし後に義経の逃避行がこの物語をおもしろくする
金売り吉次 
 奥州の商人、十五歳の義経を見かけ奥州下りを勧める。藤原秀衡に義経を会わせる。
静御前  
 義経の愛妾、吉野山で逃走中の義経と別れた後、捕らえられ鎌倉に送られる。鶴岡八幡宮で舞を舞った。義経の子を宿していたが、子どもは生まれてすぐに虐殺される。鶴岡八幡宮で舞った翌年に出家をするが、その一年後、二十歳の若さでこの世を去る。
藤原秀衡  
 藤原清衡の孫、京都から奥州に文化を移した。奥州ではもっとも傑出した人物、義経の叔父。  
       作家によってはもっと登場人物があるが、架空の人物が多いです。


                     
源義経 物語
 
 
@ 熱田神宮 (元服)
  ここのページは義経と弁慶が会う前のはなしになります。牛若と弁慶、は本当は無い話です。

 牛若丸は鞍馬寺では遮那王と言っていた。ここで行商人の吉次と出会い、吉次は牛若を平泉の藤原秀衡の所へ連れて行くのですが…。
 遮那王は吉次に言った。
「秀衡のところに参ったとき遮那王では稚児のようで具合が悪いと思い元服し自分で名前をつけようと思うがそのほうはなんと思うか」
「これはよくお気付きなされました、わたくしめも大賛成でございます」
「たぶん秀衡は元服をすすめ、源氏一家に似合いの名前を考えるに違いない。秀衡の家は源氏の代々の家臣だ。その世話になって名前を付けたとなっては、ほかの者のそしりを受けるかも知れない」
 吉次は揉み手をしながら聞いていたが、実は外のことを考えていた。秀衡のところに遮那王で連れて行くよりは、元服して源何某と名のる御曹司を連れて行くほうが効果があるのは言うまでもなかった。効果とは褒美のことである。商人は常に損得計算をするものである。
「わしは左馬頭義朝の子で九番目の子だから、左馬九郎義経と決めようぞ」
 こうして元服して遮那王は九郎義経となり、大宮司家の人々に別れをつげて熱田神宮を出発した。17歳の春であった。 

 
A 藤原秀衡と対面 
 奥州の秀衡はかなりの権力者で貫禄があったようです。
 風邪で寝ていた秀衡。(新型コロナウィルスではありませんからご心配なく)
「何っ!源氏の御曹司を吉次が伴って参ったと」
 枕をとばして跳ね起きた。風邪で寝ている場合ではなかった。
 平泉にいる秀衡は、平治の乱のときに義朝は殺され、義朝に縁のあるものは皆殺されただろうと思っていた。秀衡は家来や息子を呼び。
「左馬頭義朝公の御曹司を吉次が連れてまいったぞ、もう一度掃除にあたれ、そしてお前達もっといい物に着替えろなっなっ。失礼にあたらぬよう、よく気をつけてな、大事にお連れ申せよ、さっ行け」
 秀衡の息子国衡と泰衡は三百五十騎を従え義経のいる栗原寺に馬を飛ばした。秀衡より早く義経に対面した。
 秀衡はまるで恋人にでも会うような気分で義経を迎えた。
 義経は秀衡と対面をした。
 秀衡はすっかり風邪熱が無くなったようだった。
「はるばるお越くださいましてありがたく思いまする、わたくしはもう歳ゆえなかなかうまく行きません、殿がおいでくださったならにはもう安心、後ろ楯が出来ましたから存分に腕を振るいますって」
 吉次には有り余るほどの宝ものが与えられた。「秀衡を主と思うものは吉次に褒美をやってくれ」と秀衡がやったものだから、見栄を張るやつらは、俺はこれ、俺はあれだのと.吉次はただただ。
「うへ〜っ うへ〜っ」
 と、かしこまるばかりだった。褒美は牛車十台分もあったという。
 酒宴は何日も続いた。
 しかし、ここでじっとしてはいられない。わたしもまだ若いので、秀衡に相談しても賛成してくれそうも無い目的、“平家追討”があるのだった。
 義経は、ちょっと外出すると言って京都行きをこころざした。もちろん秀衡はこうなることを願っているのだった。

 
B 牛若丸と弁慶 (本当はここは無い話です)
♪ 牛若めがけて斬りかかる ♪ 
 尋常小学校の本に載っていました。 
 大男が子供と戦う格好のいいものじゃありませんね。
 弁慶が薙刀で切りかかった。牛若丸は刀を抜かずヒラリと交わし橋の欄干に、弁慶。
「ん身軽なやつだの〜 おい、子どもがそんな物騒なものを持って歩いていては教育上よくないなおじさんが預かるからこっちへよこせ」
 弁慶は牛若の持っいる刀がほしいのです。牛若丸。
「いやだ」
 弁慶はもう一度薙刀を振ります、これもヒラリーと飛んで難なく交わします。何回振っても、これをヒラリーヒラリーと交わします。まるでアメリカの元元大統領夫人の誰かさん見たいに、今は外務大臣なんかをやられていましたかな? 
 終には牛若丸、持っている扇子を。
「えいっ」
 と投げつけた、これが弁慶の脛に当たった。弁慶は。
「痛い〜っ勘弁してくれ〜」
 んでその脛の部分を、“弁慶の泣き所”と言う。この話は本当に嘘っぽい。大の大人が子供の牛若と対決をして牛若丸が勝てるわけが無い。少し本当らしいのは次。

 
C 弁慶との出会い 
 弁慶は、書写山を炎上させたのは自分の責任だと思っていてやけくそになっていた。弁慶の悪行が始まった。 普通の悪行では面白くない,なんて勝手なもので、人が最も大事にしているものを奪ってやろうと、刀狩りをすることにした。八ヶ月ほどで999本になった。1000本には1本足りない、黄金作りの太刀が欲しかった。
 その者の姿を見たとき弁慶は小踊りした。
「具の物を置いていけ」
 弁慶は義経の前へ立ちはだかった。
「近頃太刀を奪う大たわけ者とはそちか、欲しいなら腕ずくで奪ってみるがよいぞ」
 不敵に言い返した。
「ようし参るぞ」
 弁慶は小太刀を抜いて切りかかった、が、反対に小太刀をはじかれ、義経にその太刀を取り上げられ、その太刀を弁慶の首筋に。
「、、、、、」
「そちの刀を奪ったんでは欲しくて奪ったと思われる返してやるぞ」 
 義経は弁慶の太刀を傍の草むらに投げてやった。
 その日は義経の勝ちである。
 翌日の清水寺の縁日、またしても弁慶と義経は会ってしまった。
 昨夜は格好悪いところで引っ込んでしまった弁慶。
「今宵こそはそなたの太刀をいただく覚悟せい」
「今お前と戦っている暇は無い,観音に宿願があるゆえそれが終わったらここに戻ってくる、それまで逃げないでここで待っていろ逃げるでないぞ」
 と念押して義経は清水寺に駆け上っていった。弁慶もその後を追った。
 義経の読経に境内はし〜んとしていた。いつの間にか弁慶も一緒に合わせた。
 二人の合唱は広い清水寺の境内に心地よく響き、聞く者皆を魅了した。読み終えると二人はまたおっ始めた。
 だが、勝利は義経だった。
「して御曹司はいったい」
 弁慶は尋ねた。義経は身分を隠すまでもない者と思い。
「私は、左馬頭義朝の子、、、、、、」
「これはこれは知らぬこととは申せ、それがしとしたことは、なんともはや」
 そして家来になった。これ、なんぼか本当らしき、でもねぇ999本であと一本というときにこうなっちゃんたんだって。
 ほんとに歴史は面白くて嘘っぽい。

 
D 鵯峠の坂落とし
 神戸市兵庫区にある鵯峠、あの絶壁を馬で駆け下りた〜?嘘っぽい― でも歴史はやります。
 平家軍は鵯峠絶壁を背にして門を三重に構えて源氏が押し寄せてきてもこの城砦の一角にも取りつけまいと平家は安心している。
 鵯峠に到着をした義経様ご一行、なんか団体旅行ですね。
 じっと坂下を見つめていた義経、やがて。
「この地に詳しい者はおるか」
 弁慶に言いつけます。家来の地元の老狩人が呼ばれました。
「この坂を下りた者はおるか」
「そのような者は見かけたことはありませぬが、鹿なら二度三度」
 義経はしばらく考えていたが、やがて。
「鹿も四足なら、馬も四足、よしここから攻めるぞ」
 坂落としの際、畠山次郎重忠が、馬の前足を担いで下った、というが、どうしてそんなことが出来ましょうか、大男といっても、軍馬を担いではちょっとねぇ。
「いつも馬には世話になっている、こういう時こそ動物を労うものだ」
 と言った。それでは返って馬が歩き難くい。
 馬が言った。
「おい、やめろ俺一人で歩くからそんなまねやめてくれ、もしコケたら将棋倒しになっちゃうよ」
と言ったと思う、馬は言わないが言いたそうな顔はしていたと思います。
 このとき裾道を案内したのが老狩人の倅。この戦いの勝利は道案内が功を奏したというので、義経から、鷲尾三郎義久という名前と褒美が与えられた。最後まで義経に尽くして、死も共した男である。こっちが本当に近い。

 
E屋島の合戦 〜1〜(ぶっちゃけた屋島編)
 映画やテレビで見るように、いつもピリピリして戦いをしていたわけではない、のんびりした戦もある。お昼時、平家軍は沖の船で休む、源氏方は陸で昼ごはんを食べて、横なる者は横になる。杉の木で作った楊枝を噛みながら沖を眺めてぼんやりしていると、一艘の小舟、舟から声がかかる。
「はあ〜い、あんた達、昼飯たべたの?あんた達んところにたいそう弓の巧い人がおるんやて?」
 からかい半分で言ってくる。雑談をしていた若者。
「お〜いい女やな〜なかなかのもんだな」
 仲間を起こす。源氏の武士は皆若いので、なんだぁなんだぁ、と皆起る。
 「ありぁ〜俺の好みは右から三番目だぜ〜」
 と言うと、もう一人は、
「俺は左から三番目が好みや〜」
 目を輝かせながら言う。左から三番目も右から三番目も同じ女であるわけです、五人乗っていましたから。
 よく見ると舟の先端に十メートルほどの棒に扇が括り付けてある。
「その弓の名人とやらはどなたかいな〜」
 黄色い声が響く。これを射てみよ、という意味である。
「おい、お前弓が出きるか?んで〜お前は?お前は、おい」
 皆は自分はできないものだから、おいおい、と擦り合う。傍で寝ていた男が「うるせぇな〜」といいたそうにしていたが。
「この前よ〜弓の大会あっただべ、ほんで優勝したやつが確かおらほの班にいだでねえがょ」
 のんびりした津軽班の若者。
「それヨッチャンでねぇけ?」
 と函館班の若者。
 那須野与一の出番である。
「そうだっ、そうだ、」
 で、与一を探す。与一は夕べ遅くまで飲んでいた口で、鼻風船を作りながら寝ている。
 兵から尻を蹴飛ばされて起きる。
「おい与一お前の出番だ、この前弓の大会で優勝したっけな」
 兵の一人,あの舟の扇を落とせばさ、なんかいいことあると思うよ、と説明をするのだが、与一。
「あれを射れと、馬鹿かお前、舟は動いているし遠いし俺には無理だよ無理」
 また寝る。
 綺麗どころから声がかかる。
「よっちゃ〜んてあんた〜?、なかなかのイケ面やないの〜あんたの腕を見てみたいのや〜、この扇を射てみやしゃんせ」
 与一とて男、黄色い声に引き下がるわけにはいかない、いいとこを見せてやろうと結局はやってやろうということになった。
「これを射たら今晩付き合ってもええよ〜」
 綺麗どころはケラケラ笑いながら言ってくる。与一はそんな言葉を本気にし、更に奮い立つ。また、そのことばに皆も、俺も俺もと、いいところを見せようと、まぐれで射落とせれば、な〜んて源氏の兵士にしてはあまい考え。 
 この扇の的も一発で射たと言うが、実際には、やっと41発目に与一の放った矢が扇の紐を切った。四一(与一)って、ここから名前が来たのです。
 与一の株が急上昇した。
 平家の綺麗どころから。
「ナイス与っちゃんすてき〜」
 って投げキッスしただけで引き返して行った。
「ありゃ今晩のやくそくは?」
 平家の女にからかわれた源氏の武士たちであった。
 日本では“投げキッス”はこの頃から流行した。

 F 扇の的(格好のいい屋島の場面)
 人の醜い戦いをよそに夕暮の波は金波に染めていた。
 そのとき平家の船隊の中から一艘の小舟が渚のほうに漕ぎ出してきた。何だろうかと思ってみていると、小舟は渚にぐんぐん近づいてきて、50間ばかりのところで舟を止め横にした。舟には3人の女と舵取りが一人、女は皆若い。戦場に女が出てくることはほとんどないことだ。3人の女は皆美しく柳色の五衣に真っ赤な袴をはいている。源氏の武者はみんな若いので一斉に注目した。
 目をこらすと小舟の縁板の竿に、紅地に金の日の丸を書いた扇がくくりつけてある。扇を射よと言っているのだと源氏方は了解した。
「誰かに射させましょう」
 一人の武士が言った。
 「して味方にあれを射落とすほどの者はおるか」
義経が言った。
「さればでございます下国の住人で那須与一宗高という、腕は確かな者がおります」
「与一を呼べ」
 与一はまだ二十歳くらいの若者である。与一は兜を脱いで御大将の前にひざをついた。
「そのほう、あの扇の真ん中を射て敵味方に見物させてやれ」
 与一はしかし、御大将の命に従いかねた。とてもあのような扇を射るなどと。二度三度と断った。
 すると義経は声を荒くして。
「鎌倉を発って西国に向かう者はみなわしの命令に従うことになっているぞ、射て見なければ分からぬではないか、与一そのほう、わしの言うことがきけぬなら、早々鎌倉に帰るがよいぞ」
 こうまで言われると自身がなくても従わなければならない。
「あたりはずれはともかくお受けいたしまする」 
 はずれたら腹を切る覚悟で馬に跨った。
 ゆっくり馬を波間に歩ませた。目を閉じて弓をゆっくり引いた。
「南無八幡大菩薩日光の権現那須野温泉大明神願わくばあの扇の真ん中を射させ我を無事に国に帰させ給え」
 弓をいっぱいに引き絞った。
 目をあけた瞬間、波も、小舟の動きも、馬の呼吸も止まった。鏑矢は鳴り響き飛んで行った。扇の結び目を確かに、ぷっつりと射通した。扇は空に飛んで、ひらひらと蝶のように舞いながら波の上に落ちた。その瞬間、敵味方に関係なく、「わあっ」という声があがった。
 与一は無量な気持ちで、晴れの舞台を渚に引き返してきた。夕日もこの若者に明るい賛美送って沈もうとしていた。

   実はこの場面は無かったんです。不利な条件に乗る訳がありません義経は。お利口さんだから。
 
 
G弓を落とす
 義経屋島で那須与一が扇の的を射て男をあげた直後のことである。 義経は海中に自分の弓を落としてしまう。
 勢いづいた義経軍は、よせばいいのに馬の腹が見え隠れするところまで平家を海中に攻めた。平家は、
「これはしめた」とばかりに熊手、薙鎌で義経をめがけ攻め返してくる。
「しまったー」
 弓は潮に引かれ沖のほうに流れてゆく。義経は馬上でうつぶせになって鞭で弓を取ろうとする。ちょっと義経にしてはかっこうの悪い場面。
「弓はお捨てください!お捨てください!」
 と皆が叫ぶのですが、義経は弓を拾うのに懸命なのです。まぁ重臣たちの援護があって何とか拾えるんですが。あとで重臣たちが問い詰めると義経。
「叔父為朝のような強弓であったならわざと落としてもよいが、わしの弓では拾われて これが源氏の大将の弓かと笑われてしまうのもくやしくてのう」
 とにっこり笑って言ったという。
 
 これは逆の言い方もあるんですよ、アントニオ的には。
「この弱弓でも平家には十分だ、為朝の弓を使うほどの相手ではない」
 なんていえばどうだったんでしょうか。こんなセリフもあっていいんじゃないでしょうか。

 
H壇ノ浦の合戦
 船の大きさは、兵士30人くらい乗れる。鎧の重さは上等なもので20Kg近い。この重い鎧を着けて舟から舟に飛び移れないものですが、やるんだな歴史は。
 船から船に「えいっ」とばかりに気合を入れて飛んだ、が、船の縁に足が掛かったまではいいが、縁が濡れていてすべり易くなっている。
”ドボーン”
 義経とて泳ぎが巧くないほう、平家方から。
「助けてほしいか、助けるからお金をちょうだい」
 なんて美川憲一みたいなことを言われて義経は、敵から助けてもらうなんて〜 と思ったが命には代えられない。
「いくらほしい ガホッ、ガホッ」
 溺れています。
「今もっているお金ぜ〜ん部だ」
「ばか者、ガホッ、これから皆に飯を喰わせにゃならん,ガホッ、ガホッ十両は残して全部やる早く助けろ、ガホッガホッ」
 敵にも理解者がいて。
「んまぁいいか」
 と手を打った。
 十両ほどあった財布から、九両ほど取られてしまった。(ここからキュウリョウとり。サラリーマンを言うのですよ)だから大金は持って歩いてはいけません。
 源氏軍のその日の昼食は、かけそば二人で半分っこ。これじゃ力が入らない。
 実際には形勢不利の場面、義経は八艘の船を伝って陸に逃げたところから、
『義経の八双飛び』となった、ともいう。

   海の戦いに源氏方は弱いその理由は
 これは義経が牛若時代からの話になるが。江ノ島海岸あたりでは夏に泳いでいる者はほとんどが平家方、平家の天下。源氏の者が江ノ島あたりに泳ぎに行こうものなら仲間はずれにされ、下手をすれば殺されることもあった、ですから源氏の者は泳ぎに行けないので泳ぎのできない者が多かった。
 アントニオ省三も湘南海岸で溺れたことがあり海は怖いんです、だから泳げないのです。これを知っているのは、横須賀にお住まいの川島恭代さんです。平家方は海の合戦が得意としていた、と言うのもご理解出来ますね。

 
I景時讒言
 平家追討の際義経と意見が合わなかった景時。ここからがこの物語はおもしろい。
「殿に申し上げます」
 景時は頼朝の顔色を伺いながら言った。
「何じゃ」
 頼朝は平家追討の時、軍奉行のこの景時を高くかっていた。
「されば、、、壇ノ浦で平家を打ち滅ぼした後判官殿はこんなことを申しておりました」
「うむ、はよう申せ」
「判官殿は、今までは、天下人は二人となしといわれてきたものだが、これからは天下人は兄と私と二人になろうぞ」
 と。
「真実九郎がそう申したのか」
 脇息を倒すほど頼朝はショックを受けた。
「はい、判官殿は武勇にたいそう秀でておられます。鵯、屋島、壇ノ浦と、合戦を勝利に導かれたのは凡人の業ではございません。もし判官殿が、、、いやいやままっあり得ないことであればよろしいのでありますが、殿にもしものことがと」
 頼朝は初めは他話事とおもって聞いていたが次第に景時の言葉は聞き捨てはできないものになっていた頼朝は次第に恐怖心が湧いた。兄弟愛の裏にも非情の猜疑心が潜んでいるものである。
 とうとう頼朝は景時の言葉を信じ込んでしまった。義経をこの鎌倉に入れてはならんとした。
 この後義経は何度か天皇を通してまで頼朝の誤解を訴えるが、当時の天皇は強い者になびくものだった。
 義経は頼朝の相談役を通し頼朝宛に腰越状を書く。景時がいたからこの物語が面白いのです。

 J 腰越状
 兄の頼朝は神経質タイプ、景時のことばを本気にしてしまった。
 義経は早く鎌倉へ着いて兄と対面をしたい訳です。
 
 腰越状  
 頼朝殿へ
 殿は、讒言を確かめることもなく、鎌倉に入れてくださいませぬため、私の心を申し述べれることが出来ませんでした。兄、頼朝殿の顔をみることも出来ないのは骨肉の情が消えて、宿運が空しくなったためでありましょうか。それとも前世からの因縁によるものでしょうか。悲しき限りと存じます。この悲しみは亡父義朝殿の霊がよみがえってこない限り、誰人も兄に伝えることができないのではないかと思います。義経が判官となり、五位尉に任ぜられましたのは、源氏にとって悪いことではない、と考えます。頼むところは貴殿の広大なご慈悲でございます。おとりなし賜って誤りを兄の耳に入れてくださいますなら、その積善の余慶が一門におよび、長く栄華を子孫におよぼすことができましょう。 九郎義経

 書き終わって義経は因幡守殿へ宛名をしたためた。大江広元は因幡守(頼朝の相談役)であったからだ。だが、兄頼朝の心の中には、もはや完全に義経は住んでいなかった。返事はなかった。

 ※ 前世からの因縁とは。源氏は兄弟、親戚同士はあまりうまくいってなかった。冷たい人間関係、少しの出来事でも殺し合いをしたようです。木曾義仲も従兄弟の頼朝に殺される。これは源氏に限らず平家でもみられます。

 K 吉野山哀歌 (静との別れ) 
 都に春が来たというのに、吉野山は冬の最中、頼朝の追ってを逃れる義経一行にも悩みは耐えなかった。
 弁慶は片岡八郎にこぼした。
「こんな深山まで女性を連れてくるお殿の気持ちが分からん、こんなにのろのろ歩いていたのでは卑しい者どもに見つかり射殺しされたなどと名を残すのは口惜しいではないか」
 義経は皆の心中は知っていた。静を呼んだ。
「都へ帰るがよかろう」
「えっ」
「驚くな、心変わりをしたのではない、ここの菩提の峰は、精進潔斎しないでは入ることもかなわない、京の母のもとへ帰って来年の春を待ってくれ」
「、、、、」
「義経もどうにもならなくなったら出家し、そちもその気があるならこの世を捨て、一緒に経を読んで暮らそうではないか」
「悲しゅうございます。でも、恥ずかし乍申しあげなければならないことがございます。わたくしは殿の御子を妊りました」
「ななんと申すか」 
 驚きと嬉しさが一緒だった。
「わたくしと殿のあいだは、知らぬものが在りませぬゆえ、京に戻りましても捕らえられ鎌倉へ送られることでしょう、生き恥をさらしますよりは、この場でどのようにでもなさってくださいませ」
「ばかなことを申すでない」
 義経もどうすることもできなかった。
 静は、どうせがんでも連れて行ってはくれないと思ったのだろう、顔をあげこう口ずさんだ。
 『見るとても嬉しくもなし増鏡 恋しきひとの影を止めねば
 義経もあまりにもかわいそうなので自分の使っていた枕を持ってこさせこう詠んだ。
 『急げども行きもやられず草枕 静の馴れしこころ慣らいに』
 と詠んだ。“吉野山哀歌”である。この後、静に五人の従者を付けて京に戻す途中、従者たちは静の持ち物、財宝もみな横取りし姿を消してしまった。静は道らしい道も無い山谷をさまよい歩きその彷徨は三日間も続いたという。運良く蔵王権現にたどり着き京の母のところに無事に送り届けられた。
 
 
L由比ヶ浜(義経二世虐殺される)
 義経と別れて京の母(禅師)のところに無事に着いたが、静の懐妊の噂は速かった。
 母と静は、頼朝の家来五人に連れられて、鎌倉頼朝の前に。
 噂どおり、日本に二人とない絶世の美人だった静。頼朝は、弟の思いのものでなければ自分のかこいのものにしたかったが、今となっては自由にならない女。幔幕のうちには政子がいる。(政子は岩下志摩さんを想像すればいいと思います、余計なことだったでしょうか)
「景時、この女の腹を割いて、わしの仇のものをあの世へ送るがよい」
 梶原景時は、”男ならすぐに命を絶たせ、女なら出家をさせてはどうか”と言う提言だったが、今の頼朝のことばは、主命とてあまり気持ちのいい命ではなかった。
「もう来月は出産ゆえ母まで命を、無駄な罪づくりでございましょう、後はお任せください」
 頼朝は、横目で静をチラッと眺め。
「よきにせい」
 といった。頼朝は体裁上言ったことで、本当は機会が会れば二人だけで会って見たい女性なのである。

 母と静は、都の神々に祈った、どうか生まれてくる子は女であるように。
 だが神々はその願いを聞いてはくれなかった。
「あーあ」
 元気な男の子だった。母も静も神々を呪った。
 頼朝の命を受けた安達三郎清経は静の抱いている赤子を奪い取り由比ガ浜に馬を走らせた。母は転び転び馬のあとを追った。
 稲瀬川のほとりで死体になっている和子を見つけた。抱いて帰って静に渡した。静の懐よりほかに赤子の遺骸を安置するところは無かったのだ。

 M鎌倉の舞い(静の最期)
 頼朝は義経の愛人の静に踊らせ歌わせることで、シュペリオリティコンプレックスを感じるのです。
 頼朝の前に連れてこられた静は心を決めて舞台にのぼった。憎い頼朝や重臣方は、ただ目に映るにぎなかった。政子も、もちろん静の舞いが見たいのである。北の間に座した。つづいて大、小名数十人がそれぞれ席を設け回廊拝殿の内外には侍たちが立ち尽くし、境内も、鳥居前も人で埋まった。鳥居前、境内からは静は見えなかった。 まるで昭和の歌姫美空ひばりショーが始まるみたいに。
 どよめきが起こった。幾千の瞳が彼女の美しい姿にまばたきもしない。
 静、その日の装束には、白き小袖1襲、唐綾を上に重ねて白き袴。玉を転がすような声で「しんむじょう」を歌い舞った。
 ここまでは人々を感動させて止まなかった。静は胸が晴れなかった、頼朝にこの場で切られるの覚悟のうえで、次の詩を歌った。
 『しづやしづ 賤のおだまき繰り返し昔を今に なすよしもがな』
 『吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにしひとの あとぞ恋しき

 義経を恋う恋歌である。
 女というものの悲しみが溜まった。人々はしんと静まり返って声ひとつ発しなかった。
 静かの舞いは確かに当代一流のものであり、その容貌も神が特製したものだった。
 だが、頼朝はこの歌を喜ばなかった 
「憎い奴」
 頼朝は刀に手をやったが岩下志摩に、いや政子になだめられた。政子は女の心、静の気持ちを痛いほどに分かる訳です。
「殿、判官やその妾など、ものの数ではありますまいに…ん〜ん」
「ん?ん〜ん」
 頼朝はどこまでも恐妻家だった。
 静はその年に出家をしたがこころに悩みが積り過ぎたためであり、翌年この世を去った、二十歳の若さであった。
 こんな悲話があってよいものでしょうか、ほんとに。

 
N三の口の関所
 頼朝の追っ手を逃れるため山伏に変装をした。近江と越前の境。義経一行は二組に分けて距離も五町ほどおいた。義経一行と怪しまれないためである。
 三の口の関所に通りかかった。
「判官一行ではないかな、間違いないぞ」
 百人ばかりの番兵が次々に弓に矢をつがえた。
 義経一行はそれと空気を読み取ったが、あくまでも山伏で通そうと互いに決心していた。
「何事でござる」
 弁慶が怒鳴った。
「判官殿の一行と見受け申した、偽りは申されるな」
 番人がいった。
 弁慶も負けじと。
「たしかこの国の主人は敦賀兵殿と井上佐衛門のお二人だったが」
 いかにも知っているかのように。相手は主人の名を出されたものだから疑点が少しゆるんだ。番兵たちは戸惑った。ちょっと時間をとり相談をすることにした。
 相談のうえこうすることにした。
 もし通行料を払えと言ったら、判官一行であれば慌て通行料を払い通りぬけようとするだろう。当時神に仕える山伏は通行料は払わなくてもよことになっていた。
 番人たちは相談の結果、名案とばかりに。
「わかったお手間をとらした、通行料を支払い早よう通るがよいぞ」
 だが、この作戦に弁慶は引っかからなかった。
「これは異なこと申す、いつから山伏が通行料を払うようになったか説明を聞こうではないか」
 かなり怒ったような弁慶の芝居。
 これには番人たちもどうすることも出来なかった。
 結局山伏一行だということになり通してもらうことになった。
 弁慶と義経は皆を先にやり、最後まで因縁をつけておいしい米、八升ほどものにした。

 
O井上左衛門
 少し前、山伏姿で三の口の関所を通り抜けてきた、そのときは関所主人、井上左衛門は留守だった。
 ところが。義経一行は、金津の上野に着いた。向こうから五十騎ばかりの武士に囲まれた大名がやってきた。
 誰だろうと思って通行人に聞いてみた。なんと三の口の関所の主人井上左衛門だという、左衛門は関所の責任者だ。山伏となり済ましごまかして通り抜けてきたばかりだ、今度はそうは行かぬだろう。
 義経一行は笠で顔を隠して道の端に行列を避けた。行列をやり過ごそうとしたとき、風で笠が飛び左衛門と義経の目があった。
 義経は刀の柄に手をやった。すると、左衛門は馬から飛び降りた。義経が鯉口を切ろうとしたとき、彼は道に腰を折ってかしこまり。
「これはこれは、思いがけないところでお目にかかりまする、わたくしは加賀の井上という所に居を構えております井上左衛門と申すもの、お寄りいただきたくはございますが、そうもいかぬゆえ、さっお立ち下さって、この馬をお使い道をお急ぎくださいますよう、さあさあ」
「、、、、、」
 言葉が出なかった。
 人の好意はうれしいものだ。山伏故馬をいただくわけには行かぬが。
 一行は後を振り返り何度も何度も頭を下げた。
 左衛門は、一行が見えなくなるのを待って馬に跨った。左衛門は義経の落ちぶれようを見て気の毒さに、そのまま見逃したのだった。 
 このことが頼朝の耳に入ったら生首が飛ぶだろうに、左衛門は度胸あるね。

 
P弁慶義経を打つ
 義経一行は関東を遠くにみて北陸を通って平泉を目指します。
 無事に渡し場に着き、渡し船に乗った義経一行が漕ぎ出そうとしたとき、渡し場の大将平権守が出船を遮った。
「何といわれる、北陸道でこの羽黒山の讃岐坊を知らぬものは潜りでござるぞ」
 讃岐坊は怒鳴った。
「その千鳥の衣を着ているものが判官でござらぬか」
 図星をさされた。弁慶が出た。
「あれか、あれは白山の山伏、今までところどころで疑われた」
 弁慶は義経のところに、つかつかと近づきいきなり胸をつかんで、
「うぬはいつも我々に迷惑ばかりかけおって、こうしてくれるわ」
 義経を肩に担ぎ上げ砂浜に飛び降りて、
「えいっ」
 とばかり放り投げた、そして扇子でさんざん打ちつけた、皆はあっけにとられた、弁慶の芝居は真にせまっていた。 
 重種の主人を家来が、たとえ川が逆さに流れても考えられないことなのである。
 平権守は返って弁慶に立腹した。
「これっ判官でなければそれでよいものを何ということをするものじゃ」

 渡し場を渡っても、皆は黙りこくって歩いていた。
 林道に入ったところで弁慶は急に義経の袂にすがり大声で泣き出した。
「殿をおかばい申そうとしてお打ちしたこと、おゆるし下され、あぁ今後もこのようなことが続くのでございましょうか、もったいのうございます、あぁあ八幡大菩薩お許しあれ」
「何を言うものぞ弁慶、そのほうのしたことはこの義経を思ってしたこと、果報薄いこの義経、礼をいうぞ」
 涙しない者はなかった。
 
 Q義経の最期
 義経一行がどうにか秀衡のところに着くことが出来ました。ところが 間もなく秀衡は逝ってしまいます 。義経が奥州に来てくれたので安心したからでしょうか。
 ※ 人間は急に安心感が起きた場合、寿命が無くなることがあります、これは医学上でも分からないことです。
 衣川に館を建て、そこに義経を住まわせるようにと二人の息子に言って亡くなったのす。

 頼朝は秀衡の死を機に泰衡に、常陸国を与えるから義経を殺すようにと伝えた。常陸と言うと栃木辺りまで…。
 愚かな泰衡は、後に変な理由をつけられ頼朝に殺されるのです。つまりは、頼朝に騙された訳です。

 衣川に居る義経は、ここで兵を集めることも出来ないし、あえて秀衡の息子たちと戦うこともしたくない。
 兄の頼朝にうとまれ、父の顔を知らない義経は、父ほどに慕っていた秀衡が亡くなってからは、生きる希みを失っていた。
 泰衡軍は衣川を攻めた。
 十人ほどの義経の家来も主人と一緒に死ぬことを覚悟していた。
 義経は皆に心から礼を言った
 弁慶が入ってきた。
「残っているものはおるか」
 義経は静かだった。
「表はこの弁慶と片岡が残り、後の者は、、」
 弁慶は珍しく涙を絞って。
「殿ッ、殿が先にご自害されましたなら※死出の山でお待ちくださいますよう、弁慶が先に死にましたら※三途の川でお待ち申します」
「そうしよう、だがこの経を読み終わるまで敵を防いでいてくれぬか」
 義経は死を決心し、あくまで静かだった。
「おやすいご用で」
 弁慶は勢いよく外に飛びだした。弁慶と義経はこれが最後となった。
 お経を終えた義経は、守り刀の『三条小鍛冶宗近』を左右に大きく振り、一気に腹に切り込み横に引いた。ゆっくりと脇息に寄りかかり死出の山へ旅立った。三十一年の生涯を終えた。
 ※ 死出の山三途の川とは、死ねば必ず通らなければならない山と川。                           源義経物語 終わり   
   最後まで読んでいただきありがとうございました。           
                アントニオ省三