乞食坊主の徳阿弥は弁舌、才智はまぶしいほどの爽やかさがあった。
 松平地に居座って間もなく村人たちを集め、
「おめぇらこんな芋もそだたねぇ所で一生暮らす気か、人間にはこんな不公平はねぇものだぞ、隣をみてみろ、、」
 巧みな弁舌で口説き、土民らを集め近隣諸郷を攻めた。山暮らしを続けてきた男たちだけに強悍、軽捷さにかけては引けをとらない連中なのだ。たちまちのうちに七箇所の村をものにしてしまった。
 徳阿弥が松平親氏を名のったのは、1420年頃のこと。頃というのは、どの書物にもはっきり書いた物はないから、アントニオも“頃”としか書けない。また、この頃のことを真面目に書いていると長ったらしくなり、読んでいても面白くないし、書いていても面白くないので急ぐことにする。
 家康の6代前の泰親、信光あたりも省略して。
 
 戦国時代と言うのは、裸一貫の水飲み百姓や、貧乏乞食の男たちが自らの智恵と才覚によって一国の主、あるいは天下をとることが多い。徳川家ばかりではない、豊臣、織田、あたりも含めその九割以上はその家系、家議のたぐいである。〈父、広忠のところもほとんど省略して〉

 1420〜1542年。
 悲運の子、竹千代(のちの家康)が生まれた。まさに乱世で、この頃の武将に、
 竹千代1才において、
豊臣秀吉7才、織田信長9、上杉謙信13、武田信玄22がいる。
 歳順を知っておくと『歴史は嘘っぽい』を整理するには便利だろう。アントニオ省三の気の計らいであるぞ。

 このころ松平家は、衰え弱小国の悲哀を噛みしめていた。竹千代は幸運なはずでない。叔父の信孝が敵となり、家康の父、広忠に挑戦を申し出た。広忠は駿河の今川義元に助けを求めた、が、義元は「その代り」と、一つの条件を出してきた。
6才の竹千代を人質とすることだった。
 
28人の雑兵に守られ岡崎城を出た。
 蒲郡から船で三河湾を横切って田原に着いた。一行の前に田原城主の戸田宗光(または康光とかいうそうだが、はっきりしない城主だとかいてあるところが歴史は嘘っぽい。)と、言う人が迎えに出ていて。
「陸路は織田の地が多く危のうござる、いやいやご案じさなるな、それがしが船にて駿府までお送り申そう」 戸田宗光は魂胆があり、義元の人質を織田信秀に売ったのである。竹千代を手に入れた信秀は岡崎に使者を送り、
「織田に一味してはどうか…、さもなくば竹千代の命は…、」
 広忠は驚いたが凛呼として、
「我が子の人質にひかれ今川の厚誼に背くわけには参らん、人質は生かすなり殺すなりおことの思うままにされよ」
 本心はそうではないが、今川の手を放れるのを恐れたところもあったろう。
 頼れる父から見捨てられた竹千代であった。
 広忠の拒絶にあった信秀は、
「まっそのうち別の手でも考えて見るか」
 といって、竹千代を万松寺で軟禁し殺さなかった。この辺は幸運の星の下に生まれたといっていい.

 1549年
 11月、今川は大挙して織田信広を捕らえた。捕虜交換で竹千代は岡崎の地を踏んだ。
 だが父広忠の姿はそこにはなかった。家臣の岩松八弥の凶刃に倒れたのだった。
 織田の人質から今川の手に戻った竹千代に、今川は、
「岡崎に帰してやろう」
 といった。しかしその言葉にも意味があった。喜びに湧く岡崎城に今川の使いが来て、
「竹千代はまだ若年であり、成人するまで駿府でお預かりし、後見人は義元がする。松平の所領は今川にて預かり置く。松平一門は妻子を連れ駿府に移るよう…、」
 というのだった。松平党は息をのんだが、否も応もない苦汁をすする思いで下知に従った。
 織田の人質が終わったとおもいきや、今また駿府へ囚われの身となって旅立って行く。残った百姓たちは駿府にいる竹千代が、冷遇されぬようにとおもい、今川勢の傍を足音をたてぬような日々を送った。
 岡崎城には今川から来た代官が居座り管理する。岡崎城の譜代たちも鍬をとり今川の者たちの機嫌を損ねないようにと、その心気配りはたいへんなものだった。
 しかし竹千代は人質としては待遇がよかったようだ。

 話柄
 のちの家康の話柄は実に多い。
 あるとき端午の節句のとき、子供たちの石合戦があった。その折供してきた側衆のものに、
「あの合戦はこちらにいる者たちの勝ちじゃ」
 あちらははるかに大勢こちらはその半分しかいなかった。
「どうして少勢が勝つとお分かりなさる」
 不審に思って側衆が訊くと。
「大勢は人に頼る、少勢は必死の結束をするものじゃ」
 やがて大勢の方はなだれをうって敗走した。これが10才のときだった。
 今川の屋敷では新年会が行われていた。まだ諸大名の挨拶が続いている最中、いきなり立ち上がりつかつかと縁側に行き、いきなり小便を放った。義元の家中は、
「なんという肝っ玉の大きい小せがれよ」
 と見入っていた。また、こんな話もある。人質の竹千代に優遇しすぎるとも思う者がいた。それが孕石主水。孕石主水はなにかに付け、竹千代のことを悪くいい、
「やれやれ三河の小せがれには手をやくわ」とか「このようなものを放しておいてよいものかのう」
 などと言ったりと、子供の竹千代を苦々しく思っていた。かなり後後の話になるが。家康が武田軍の高天神城を攻め落としたとき、捉えておいた孕石主水に家康は、
「お前は以前、三河の小せがれがどうだとか言ったな?そばに置いては何だと言った?俺もお前は要のない男よ、この場で切腹をせい」
 といって切腹をさせてしまった。
 また孕石主水と同じ縛られていた、大河内源三郎の縄をとかせて、
「おまえは昔駿府でわれを労わり、ようしてくれた、あのときのことを今も懐かしく思うぞ」
 と語りかけ褒美をとらせた。しかし歴史は面白く書けばいいもので、このような話柄は鵜呑みにはしないほうがよいと、アントニオは思う、アントニオ省三は真面目な男ですよ。

 1555年。
 竹千代は元服して松平次郎三郎元信と名のった。松平次郎三郎元信は今川から7年ぶりに岡崎城に帰省を許された。岡崎城を仰いだ元信は、
「わしはまだ若輩ゆえ」
 と、本丸には入らず二の丸に下がって滞在した。家康の生涯の“用心深さ”である。14才頃からすでに身に付いていた。
 これが義元に聞こえないはずがない。義元は元信の行為に安心をし、気をよくした。岡崎で墓参をすました元信は、今川の勧めで、今川義元の姪を妻に迎えた。名前も“松平蔵人元康”に変えた。
 家康さんは何回も名前を変えてわかりにくい。次は“家康”でその後は変わりませんから
 元康は、桶狭間織田軍の丸根の砦を攻略することを命じられた。
 佐久間軍の丸根砦は、鎌首をもたげて立ちはだかる双頭の蛇に似ている。そこを突破するにはこの蛇の頭を撃ち砕かねばならない。今川軍の中で死地に投じられるのはいつも松平党であった。第二世界大戦でアメリカでは、いつも先頭に立たされるのは黒人兵と決まっているのに似ている。
 この蛇の頭を舞台に攻め込んだり、退いたりした合戦が長く続いた。元信もこれまでもこんな頑固な砦に出くわしたことはなかった。双方の死傷はおびただしい。押し引く戦いの中にチャンスはどこかにあるものである。佐久間軍の守将の佐久間盛重は奮迅のなかに銃弾に倒れた。
 これによって形勢がかわった。佐久間軍は一時作戦会議に入った。この一瞬の隙を元信は突いた。砦に火を放った。元信の得意な戦法である。
 松平宗次に佐久間党の首級7つの首をもたせ、勝利を今川義元に知らせた。
「ご苦労、されば元康、大高城へ戻って鵜殿と交替し、人馬を休めよ」
 と命じた。元康は承知はしたが、大高城へは長居はしなかった。義元の魂胆はわかっていた。大高城を死地に陥れ、松平元康を一気に滅ぼそうとしていることを。
 しかし人の運不運はどこから来るかわからないもので、元康が大高城に入って間もなく、義元は織田信長の奇襲をうけて、桶狭間であっけなく世を去ったのである。元康が大高城に入って数時間後のことである。
 この桶狭間の合戦ほど人生の運というものを感じさせる戦いはない。
 元康にとって幸運が重複している。たとえば。
 大高城へ軍を進めていた義元が進路を変えていなかったら、、。
 進撃の途中で忍びの情報を耳にしていなかったら、、。
 作戦会議をしてまで作戦の変更をしようとおもわなければ、、。
 などである。また、信長が義元を攻略した後余勢で大高城を攻撃していたら、、。
 元康は義元の敗死を翌日の夕方まで知らなかったのである。これほど奇運、幸運に恵まれた人物は家康という人のほかにいたであろうか、という言い伝えがあるが実際はどうであったか…。
 
 家康の臆病と慎重
 義元の敗死の知らせに、
「まことか」
 元康は顔色を変えた。
「この大高城に信長が攻めくるのは必死じゃ早よう岡崎城に帰城くだされ」
 老臣たちは口々にいう。が、元康はそれを抑えて、
「まて軽忽に判断してはならぬ、、、もし義元が生きていたならどうなる」
 元康の用心深さは、にわかに人の言葉は信じないのだ。
「家次、確かめて参れ」
 家次は数名の武者を連れ大高城から出ようとするところに元康の生母の兄、水野の使者、浅井六之助がやってきて。
「今申し上げましたように、信長軍勢は明日にも押し寄せやも、、なにとぞ早々岡崎城にご退陣なされ」
 と、元康にいう。すでに城兵たちはかかとが浮き上がっているが、
「たとえ骨肉血縁とて迂闊に信じるものではない」
 そばの者たちもあきれるほどの慎重さ。
 こうしているうちに岡崎の島居から帰城をうながす使者あった。ようやく元康は、
「さて、、、退くか」
 ようやく心を決めた。

 城をいただくか
 岡崎城に着いたが、
「わしはまだ若輩ものゆえ岡崎城に入るのは憚り多うございます」
 と中に入ろうとしない。こんな態度に驚いた今川家からの城代三浦上野介、
「元々はおことの家の城お入りなされ」
 と言っても、入ろうとしない。城中の連中は桶狭間の敗走に震えあがっている。
「もしかしたら…?」
「ひぇっ」
「わっ」
 松平党は信長と組んでこの城を…、今川衆は城を捨てて駿府へ逃げだした。
 一人も居なくなった城を確認した元康は、
「どれ捨てた城ならいただこうか」
 ようやく腰をあげて岡崎城に入った。
 岡崎城主となり今川からの束縛から解放され自由の身になったが、松平党は独立しなかった。
「今川の恩義に報いるために」
 と織田の城砦を見つけると片っ端から挑み攻撃をした。
 だが、今川に恩義などあるはずないこと。今川の皮を借りて軍の厚みをはかっていただけである。
 今川の手を離れても、今川の脅威が無くなったわけではない。それからの忍びの者情報によると。
「今川義元の弔い合戦とぬかしておきながら氏真殿は日夜酒宴にふけり歌舞にうつつをぬかしておる有様」
「なんだうつけか、、ならば捨てるか」
 捨てるとは、今川をである。戦国時代の極端な不実変貌である。
 その後、信長から講和の話が持ち込まれてきた。水野が仲介役である。元康は信長と和睦をした。
 従ってここで、完全に今川と手を切ることになる。同時に義元の名をかなぐり捨てて家康と名のりをあげたのが、1563年のことであった。
 
 三河叛乱
 家康が生涯最も苦難したのが三河の一向一揆である。ことの始まりは、上宮寺にほしてある籾を菅沼藤十郎が勝手にまきあげたことに端が発した。
 驚いた寺僧たち。
「なんという狼藉」
 憤激した寺僧たちはすぐさま勝鬘寺(しょうまんじ)本證寺(ほんしょうじ)善秀寺などに急を告げた。当時の鼻っぱしの強い衆徒。
「領主ごときにわがままを許しておいてよいものか」
 さらに、
「このたびの菅沼の振る舞い前代未聞の狼藉なり」
 三河国内の僧侶僧俗、土民らに呼びかけたのだからたまらない。このころの一向一揆は現代では理解できないくらい夥しい。
 現在版では中国の若者の暴動ににている。日本の大学紛争、成田紛争など。何をもって来てもときが来ないと静まることはない。狂気といってもよい。
「仏敵菅沼を討ち懲らしていまおうぞ」
 これに怒ったのは家康。
「おのれ人もなげな坊主ども三河から追い出してくれるわ」
 だが非は菅沼、家康のほうにあるから暴動はしばらく治まらなかった。
 六ケ月続いた叛乱は2月28日ようやく講和が成立した。
 和睦に当たって家康は次の三カ条を約定した。
一、一揆に加わった武士たちの領は没収しない。
二、寺や僧俗は以前のままとする。
三、一揆の張本人の命は奪わない。
 ところが家康にはこんな三ヶ条は最初っから守る気はない。一揆を完全に鎮める手段なのだ。
 そのあと、崩れかけた寺院を皆壊して更地にせい、とした。これに、
「寺院はそのままにおく約定ではなかったか」
 と騒ぎたてたが家康は、
「そうよ、そうよ元の寺のあった野原にすると言ったよな」
 これを聞いていた首謀者たちはまごまごしていたんでは、どんなことにもなりかねないような気がして、ちらほら遁走してしまった。
「これで手間も省けたわい」
 家康の計画どうりに進めることができた。
 こうして三河の安定を取り戻した家康は、残っている今川の諸城砦を攻撃し、三河全土の統一に成功したのであるときに二十三才。

 徳川家康
 1566年、足利義昭を通じて朝廷から従五位下(じゅうごいにげ)に任ぜられた、これを機会に松平から徳川と改め徳川家康と名のる。ここから徳川家康の名前は変わらない。
 翌年嫡男竹千代と信長の娘徳姫と婚儀が行われ、信長との同盟に緊密さをくわえた。
 女の物欲はいつの時代でも同じで、戦国時代も領土取りの争いをしている。いやこれは女ではなく戦国の武将を例えたのですから間違えないでください。
「今川の膏沃な土地がほしい」
 こう思っていたのは家康だけではなかった。甲州の武田信玄も同じことを思い行動を開始していた。
 信玄は山県昌景を家康のところに使いを出し、
「駿河と遠州を攻略するから、我々と手を結び大井川を境として、遠州は徳川、駿河は武田としてお互い分け奪りしようではないか」と伝えさせた。
 家康は承知した。
 かくて駿府城は炎上、青くなった今川氏のところへ家康がきて、
「この遠州は、家康が落とさずとも信玄に奪われるのは必定、ならばいっそこの家康にお譲りなされ、そして北条家と手を組み、一緒に信玄を挟み討ちにし、必ずおことを駿河にお入れ申そう」
 この言葉に二もなく、
「わかった」
 と言って、しばらくは姿を隠していた。またしても家康の嘘にだまされた。家康には氏真は今は用のない男。家康の人柄で、できれば無駄な殺し合いは避けたいのである。
 だいぶ後のことだが氏真は放浪中に秀吉に拾われ露命をつないでいたが、その後家康に仕え七十七才まで生きた武士である、また、蹴鞠(けまり)の天才でもあった、とある本には書いてあった。こんなことはどうでもいいことだが一応…。

 家康は引馬城に居を移しここを駿河城と名づけた。
 徳川の領土は広がったが安心できない。大井川の向こうには一筋縄ではいかない信玄がいる。信玄は、野望を遂げるために父も殺した。嫡子も牢に入れ殺害をした稀代の冷血漢である。
 家康との協定も、
「一時家康に預けておこうか」
 ぐらいにしか思ってない。慎重にさらに慎重な家康には初めから読めていた。あちらこちらの攻略に今まで何回となく背をつつかれてやってきたものだ。
「構えて油断するな」
 家臣立ちもつねづね言い合っていた。
 家康は越後の上杉謙信と手を組むことにした。そして同じように小田原の北条氏康とも手を結んだ。そして山県昌景の駿府城を難なく落とした。慌てた信玄は駿河を放棄して甲州に引きあげて行った。
 遠州一国が家康の掌に転げ込んできたのである。家康は29才になっていた。
 
 1570年(元亀元年

 この年には、毛利元就、北条氏康、武田信玄らが世を去っている。
 家康は信長から朝倉攻めを命じられ、5千の兵で浜松を発った。桶狭間からちょうど十年が経っていた
 この間の信長の活躍は凄まじかった。たちまちのうちに動員兵六万余りの大名にのし上がっている。
 家康は戦国時代には珍しいほど信長に律儀であった。信長が本能寺で斃れるまで約二十年間、変節背信の時代には本当に珍しいことである。

 朝倉攻め
 姉川の合戦が始まったのは四月十七日。家康は後に、この姉川の合戦ほど難戦だった戦いはない、と語ったという この“姉川の合戦”というのは徳川方がいうもので、信長や浅井方では“野村合戦“とか朝倉方では“三田村の合戦“と呼ぶらしい。
 家康は信長に律儀であった、だけではない。家臣にもかなりの信用があったこともあげてみよう。
 家臣からは聖者とも呼ばれていたこともある。過酷な運命に弄ばれてきた家康は、どの家臣の苦労も一人一人のことを覚えていて。後年大御所と呼ばれるようになってからも重臣たちに「、、、殿」と丁寧なことばを使う。一向一揆のあと一度は背いた者たちにも安堵してやり、あたたかく迎え入れたりもした。家臣も家康を思うことはひととおりではなかったという。

 あるとき、家康の体に腫れ物ができた。しだいに悪化しやがて高い熱がでて家康も、
「もはやこれまでであろう」
 と遺言の用意までした。するとそれをみた本田重次が灸を勧めた。だが頑固者の家康は、
「いまさら灸などすえても熱いだけじゃ苦しんで死にとうない」
 といって受け付けない。重次も重ねて勧めるが家康も頑固である。
「もはや寿命よ」
 といってきかない。
 重次は急に大声を出し、
「ああ重次は不覚者よ、かようなわからずやの殿とは露しらずこの歳まで、こと戦に駆け回り身に傷を受け仕えてきたのがああ情けなや…重次一足先にお暇つかまつる」
 といって家康の枕元にあった脇差を抜き腹に突き刺そうとすると、
「まぁ待て重次よ……、よいわ、灸をすえるわ…すえればよいのじゃろ」
 といい重次に艾(も)をとらせた。傷はまもなく治った。

 秀吉の宝自慢のとき、秀吉は諸侯に。
「…で、お主はどんな宝をお持ちかな?」
 うながされた大名たちは思い思いに宝の数をあげてみせた、が家康は口を開かない。
「三河殿はどうじゃ」
 秀吉がそう訊ねると家康は、
「三河は田舎ゆえ集めようと思うても集まらんし、また、集めようとしたこともござらん。なれど、わが気には、あるじのために命を惜しまぬ家来が五百ばかりござる、これこそ何物にも代えがたき宝と存じます」
 その言葉をきいた秀吉は。
「はてさて、三河殿は果報者よ、そのような宝をわしも欲しいものじゃ」
 と羨ましげにいったという。

 三方ガ原
 史上最強の甲州軍団を率いた武田信玄が行動を開始した。当時は、だれが天下者になるかといううわさが集まっていた。
 越後の上杉謙信か、甲斐の武田信玄か、あるいは新勢力の織田信長か。しかし甲斐は一向一揆の余波で状態は堕ちこんでいる。
〈時ぞ至れり〉信玄は躍り上がった。風林火山の軍旗をはためかせ一路京へ。信長は狼狽した。
「信玄と戦ってはならぬ」
 そして家康にも、
「三河殿も浜松を引き払われ、すぐ岡崎城に戻られ、いまは息をひそめ時を稼がれよ」
 暴風雨の通りすぎるのを待て、というふうに信長はいう。
 この巨大な敵に向かうにはそうする外はないようである。
 信玄の「二股城包囲」「吉田城楽城」「伊平城おつ」
 敗報は次々と浜松城に舞い込んでくる。武田軍はすでに浜松の東北方の二股城。ここををくだすと、浜松城「武田軍はこの浜松城には、馬込川を南下してくるか、それとも北方の山間部を迂回して東三河に西進するか、、、」
 徳川軍は居息をつめて信玄の進路を見つめていた。〈寒気は厳しい、、だが信玄は必ずくる〉家康は身震いした。夜半になって「武田軍団は、東三河は向かうようだ、、、」という知らせに、武将たちはほっとした。武田軍はこの浜松城を黙殺して三方ケ原から井伊谷にぬけ、東三河に西進するつもりらしい。
 軍議の場はにわかに明るくなった。ところが今まで明かりを見たがっていたはずの家康がにわかに、
「明朝、出陣じゃ」
 と思いがけないことを口走った。石橋を叩いても用意に渡ろうとしない家康、何を血迷ったか。
「考えてもみよ」
 呆気にとられる武将たちに家康は、
「信玄ともあろうものが黙って我屋敷を通りぬけようとは、けしからぬ」
 武将たちはお互いに顔をみあわせ呆れかえっている。
「このまま居すくんでいれば弓矢の恥辱、敵に枕を跨れても起き上がれぬ臆病ものよと、世にも人にも嘲けられるが必定」
 この夜の家康はつねになく強引だった。ところが強引に軍議を決したあとに、
「わしは死ぬかも知れない」
 としきりに爪をかんでいる。この爪をかむ癖は臆病者に多いと心理学者は言う。
 出陣前夜には声をあげて絶叫したり、今にも発狂するのではないか、と思われるような異常こともあったらしい。家康も戦国武将にしては稀な臆病者だった。
 家康軍は、信長軍の援軍を背にしてゆるゆる動き出した。
「家康軍は武田軍の三分の一の兵を率いて城から這い出し三方ケ原の広大なところへやせ鳥が翼を広げ我々待ち伏せしているそうな」
 信玄のとこに情報は入った。
「三河の小せがれ目が…、なにができる」
 信玄はあきれた。
 信玄は家康より二十二年上。子供の遊びにしか思っていない。〈できることなら戦わずして通りすぎようとしていたが〉
「ひねりつぶしてやろうぞそれっ」
 攻めてこられればひとたまりない家康軍。せっかくの織田の援護軍も信長に、
「無用の戦いに目減りをさせてはならぬぞ」
 と言われていたものだから最初っからやる気がない。いつでも逃げる準備をしている。
 これを知らない家康は。
「こんな戦いがあるものか」
 とは言ってもどうしょうもない。
「今だかかれ」
 武田軍は隙間なく攻めこんで来る。
 戦闘は続く。
 敗軍となった家康軍、家康は裸馬にしがみつき浜松城に逃げ込んだ家康は。
「枕を持てっ」
 側室の用意した枕に、ごろりと横になりいきなりいびきを掻いて眠り込んだ。
 追撃して浜松城に着いた武田軍の先鋒は、
「これは?」
 門は開け放ち篝火だけは焚かれていて昼間のように明るい。〈徳川勢はよほどの計略…〉
 不適な防備に遅疑しながらその場に気を呑まれ帰ってしまった。
 中国の故事に“空城の計”にあることを家康がやったのか…、そうではなかったらしいが。
 家康はこの敗戦によって得たものは、武田信玄の戦略。後年側近にもいい語ったという。
 偉大な敵、武田信玄は。
 三方ケ原の勢いの残っているいま、野田の城を陥し、吉田城の攻略にとりかかったとき。にわか病にかった急遽甲州にかえり作戦を変更、ということで帰路に向かったが、途中であえなく人生を終えてしまった。

 ― 武田信玄の死の前の話がしばらく続く ―
 信長ほっとしたが、家康は手放しで喜んではいられなかった。信玄の後を継いだのは勝頼ではない。勝頼の子、信勝である。信玄の遺言によるものだった。
 勝頼にすれば心よいはずはない。〈父はわしの器量を軽んじるのか〉重臣の中にも。「殿〈信玄〉はこうでありましたよ、そのようになさっては…」
 と言っても勝頼は。
「ええいっ、わしにはわしの仕様があるわ」
 と、言うことを聞き入れない。信玄の遺言には、
『わしの死後しばらく所領の固めをし、かまえて出兵するな』
 の言葉を破って、美濃の明智城、織田の砦、岩村の付け城、十八城を攻めおとした。折から勝頼のもとへ密書が送られてきた。送り主は家康の馬の口とりをしている大賀弥四郎である。大賀は武田と家康の抗争を利用して、あわよくば岡崎城を自分のものにしてしまおう、という魂胆。もちろん信康を殺してである。
 勝頼は喜んだ。
 1575年4月。大賀は勝頼の兵を家康の兵と偽り、岡崎城を開けさせ突入した信康を殺害するという手筈だった。だが大賀は捕らえられ、家康の手によって頸板をはめられ浜松を引き回しの後、岡崎城にもどされ手足の指を一本一本切られ城下の隅に生き埋めにされた。こうした残酷刑を好まなかった家康が、あえて行ったのは敵の武田に憎悪をかきたてたものによる。

 信長は岐阜を発つとき諸隊一人一人に、丸太と縄を持たせた。設楽ガ原に馬防柵を設け、柵の背後に最新型の鉄砲を置いた。鉄砲隊三千人を三組に分けた。武田に突入の機会を与えないという戦法である。
「武田の小ひばりめ一ひねりにしてくれようぞ」
 まんまと作戦にひっかかり設楽ガ原に出てきた武田軍をみて信長はにやりとした。活きあがる勝頼に、もはや家臣たちは死を覚悟し、従うしかなかった。水の杯を干し、
「かくなるうえは」
 騎馬突撃隊、第一陣、山県昌景、第二陣、武田逍遙軒、第三陣、赤武者の西上野、第四陣、黒武者武田典厩、第五陣、馬場美濃守と、次から次と馬を走らせ突撃してくる。待ってましたとばかりに、柵に嵌まり込んだ武田軍に、織田、徳川の連合軍は銃弾を叩きこみ、容赦なく打ち砕いた。武田の名のある武将は惨憺たる最期を遂げた。
 こうした長篠の合戦は当時の“史上画期的戦い”として残っている。

 余談だが、鉄砲は十四世紀にアラビアから伝えられたそうで、アントニオ省三は、オランダかポルトガルかと思っていた。歴史の時間によそのことを考えていて、先生の話をよく聞いていなかったわけです。

 長篠では勝利をおさめたが、武田は広く根づよい、それに関東の北条氏が残っている。まだ武田とは、あちこちで、いざこざした争いが起きていて、武田が攻め込めばこっちは引く、向こうが引き返せばこっちが攻撃にはいる。
 中国の毛沢東も、「敵が進んでくれば退き、敵が止まればかく乱し、敵が疲れたら攻撃し、敵が逃げれば追跡する」
 という戦術に似ている。いや毛沢東が採用しているのか、それとも毛沢東独自なものか。論ずることはナンセンス

 女騒動
 こんなとき家康に事件が起こった。家康より十ばかり上の姉女房築山御前が目をつり上げた、
「家康が若いおなごにうつつを抜かしてる」
 築山御前とは夫婦の営みは遠ざかっていた。
 築山御前の嫉妬は半端ではなかった。
 家康も結婚した当時は女の肌の珍しさに、しばらくはのめり込んではいたが、信康、亀姫が生まれてからは夫婦の間の溝が次第に広がっていった。
 築山御前は、今川義元の姪で、今は亡き義元。信長と同盟を結んでいる家康は今川に恩など今はない。古る女房と別居をいいことに、小督、竹、下山、局、阿茶などに戯れる毎日。
「何をほざくか、この蛙女めが」
 蛙女とは目が離れていて吊上がっていたからで。築山御前も、
「なによ、けがらわしや」
 と癇を昂ぶらせ妬ましさに歯ぎしりをした。家康に見捨てられたかっこう。
 子の信康は、信長の娘にうつつをぬかしている。築山御前は妬ましさに眩暈を覚えるほどでだった。
「はっ信康、、」
 築山御前は、― 信長の娘にうつつを抜かしている ―
 信康を使って家康に一泡吹かしてやろうと考えた。
 信康に美女をあてがい、信長機嫌を損なわせ、家康と信長の仲を遠ざけ、あわよくば家康を亡き者に。 いつの時代も女の考えの悲しい浅はかさよ。
 築山御前は、家臣の美女を買い取り、
「織田の小娘は皆オナゴしか生まない、そなたに男の子を産んでもらい、のちには…」
 と、信康の寝床に女を差し向けた。
 信康はこの美女にのめりこんだ。これが城内でうわさになり、徳姫は目を吊り上げた。
 事実、築山の嫁いびりは辛辣をきわめている。
 徳姫は信長に筆をとった。
 築山の謀った事実は徳姫の侍女の側から入った。築山御前が武田勝頼に内通して家康を殺して二人で甲州へ逃げるらしいという蜜謀である。
 これによって信長は家康に、信康と築山御前を殺すようにと言ってきた。信長にしてみれば信康には強い警戒心を持っていた。今なら信康を叩きのめす理由があり、これを直接自分が下すより家康にさせるほうが手が汚れない。今になっても兄貴分は信長である。
 しかし信康は自分の子であり築山は妻である。築山はどうでも、信康は…。
 苦悶が始まった。三日目にようやく重臣だちをよんで信康と築山の処断を命じた。
「そちたちに…築山と信康の…始末を任せるぞ…」
 それは、蚊の泣くような声だった。
 
 家康の苦悩

 天正七年1575年八月二十九日。アントニオ省三の誕生日一日前、余談でした。
 築山御前は三人の者によって殺害された。〈岡崎の西来院に西光院殿政岩秀貞大師〉の戒名で奉ったが、のちに戒名が変わるらしい。
 信康の処刑にあたってはまだ迷っている。
 とうとう病に伏する。だがいつまでも悩んでいるいるわけにもいかない。やがて家康は、
「岡崎から出せ」
 家臣に命じた。身柄を三河の大浜に移した。数日すると、また家康は、
「堀江の城に移せよ」
 そしてさらに、
「二俣の城に」
 なぜこう転々と…。
「はよう逃げよ、誰か逃がしてやらぬか…を待っていたものであった。大浜の海、天竜川の川、いずれも逃亡の理のある場所ではないか、心ある家臣の手引きで…。
 しかし、ここまでくれば決断をくださねばならない。かくて天正七年九月十五日、1579年。切腹に臨んだ信康は。
「天地神明に誓って我一点の疚しきにあらず」
 と叫び最期を遂げた。
 この事件は女の嫉妬によることから端を発したことであった。女には気をつけようではないか。

 甲州打ち込み
 天正十年。織田、徳川と同盟を結んだ北条氏と轡(馬のくつわ)を並べて甲州本国へ入っていく。
「三河殿は、駿河口から攻められよ」
 連合軍は四方面から進撃を開始した。甲州は度重なる戦いに戦費を使い果たしていた。
 百姓も徴税に苦しみ、その不満がいつ爆発するかも知れない、その不安があった。
 その矢先である〈これはいかん〉
 そんな家臣たちの童謡を見澄ましたように“領所安堵”の朱印状を握って潜行してきたのは、家康の蜜使たちである。
しかし家臣たちは、
「三河殿は世にも聞こえた律儀のお人ゆえこの約定ムザと破りはすまい」
「むかし一向一揆に加わった家臣の裏切りを咎めず温かく迎え入れてくれたそうな」
 こう考えた家臣は次々と家康に和を乞うた。重臣、実力者までが勝頼から寝返った。
 凄惨な逃避行を遂げた武田勝頼も天日山の麓田野の里で自刃した。ある本には勝頼は食に絶たれ動けなくなっていたところを、徴税に苦しんでいる百姓の鍬の投打に倒れたとも。また、勝頼は、「これが最期じゃ」と狂気ざたに一人で刀を振り回し、しばらくして疲れきって倒れたところを伊藤某に首をはねられた。

 家康は信長に呼ばれて善美をつくした饗応を受けていた。
「この機会に、京、大阪、堺奈良などを見物していったらどうだ」
 と信長に勧められ、家康は、京にのぼっていった。
 この十二日目あと。天正十年六月安土城の異変が起こった。いわゆる『本能寺事件』である。
 参考に『織田信長物語』でどうぞ。

 そのころ家康は堺見物をすませ京に向かうところだった。
 一頭の狂ったような馬が忠勝に向かって疾駆してくる。
「おやっおぬしは四郎次郎」泡を吹いている馬から転げるような格好で滑り落ちた。
「いっ一大事でござる、、惟任日向守(光秀)どのの謀叛今晩右府(信長)さまが本能寺でお果てに」
「なんと」
 忠勝は驚きを貼りつかせた、
「ま、まことか、、それは」
 忠勝は鼓動の治まらない馬に跨った馬首を翻すと、まっしぐらに駆けもどった。
 知らせを聞いた家康は声がのどに痞え、しばらくは声にならなかった。

 にわかに出現したのは豊臣秀吉だった。訃報に帰城する家康に邪魔する暴漢を救ったのは秀吉だった。
 家康は、三河、駿河、遠江、甲斐、信濃の五カ国を治め合わせて三十八万石。それに比べると秀吉は六百二十八万石と比べものにならない。秀吉は先輩格の織田の老臣たちを追い落とし天下統一への満々たる自信を漲らせている。近畿三十余国の大名たちに号令をかけている。秀吉には二つの障害がある。一つは信長の後継ぎの尾張の信雄(のぶかつ)。もう一つは信長の朋友の家康である。
「奴は何を考えている」
 律儀者の家康の正体はつかめない。
 このあと数回の小争いがあったが。大きな戦いにはならなかった。
「三河殿の御子を養子にいただきたい」
 と言ってきたが、家康は、
「おことの嫡男にはもったいのうござるゆえ、、」
 次に秀吉は異父妹の朝日を家康に嫁がせたがまだ応じない。秀吉の講和には応じたものの上洛しない。これには秀吉も弱った。秀吉は、織田の版図を相続して自身の政権を樹立させるためにはどうしても家康の妥協が必要だった。家康という存在とその向背を無視できない。
 秀吉は最後の切り札として実母の大政所を人質同然に届けてきた。
「母思いの秀吉がここまでやるとは余ほどの決断であってのことであろうよ」
 ここまでくると家康も拒みようがない。
 天正十四年十月二十日徳川軍団六万騎を率いて出向いた。秀吉に臣従するためである。
 天正十四年、天正十五年、天正十六年、天正十七年、その後の関が原の戦い。
 豊臣政権の五大老、五奉行の筆頭役の座を占めた家康は、信長と同じように秀吉にも律儀だった。
 七十五才で没するまで、幾たびの戦は家康の政治戦争だったのではないか。
 最期にのぞんで家康は。
「われを神に奉れよ」
 最期のことばだった。     徳川家康 おわり
  
           最後まで読んでいただきありがとうございます。 アントニオ省三

平家物語
徳川家康
織田信長
豊臣秀吉

徳川家康 物語