天文六年二月六日
 
梅のつぼみはまだ固く、稲田の水溜りに薄氷が張っていた。
「わ〜い赤ん坊が生まれたぞう、弟が生まれたぞ〜」
 一人の女の子が大きな声で近所を走り回っていた。女の子は、トモと言った。
 女の子は、父に「生まれたぞお前のおとうとが」と言われただけで、まだ赤ん坊は見ていない、まだ家に入っちゃいかんと言われていたからだ。
 しばらくして女の子は弟と会った。だが、赤ん坊を見た女の子はがっかりしたような顔をした
「なんて気味のわるい赤ん坊だろう。まるで猿みたいだ、猿より気味がわるい。」
 (実は、私アントニオ省三も、生まれたときは猿にそっくりだったと、親が言ってた。せめて親からは言われたくなかったが…、まぁ他人より耳が大きいからしかたないですが)

 後年この赤ん坊が天下をとる、また自分が関白秀次の母親となる運命にあろうとは、むろん知るよしもないこと。
 父は、「人間の先祖は猿じゃ何も恥じることはない」
 とおおらかだったが、トモは村の悪童らに。
「猿の姉が猿を背負っているぞ」
 と言われるのがたまらなく嫌だった。泣き声も普通の赤ん坊より三倍も大きいのである。母のナカも、お腹のすいたこの小猿におっぱいをやるときに。
「小猿やほれおっぱいだよ」
 と言っていた。この母も後の「大政所」になるとは誰が予想できただろう。

★ 
小猿が七つになった
 父は他界した。死ぬ直前猿に。
「永楽銭を母に預けてある。いつかは約に立つだろう。それからな、顔のことは気にするな、男の子は夢を抱いて暴れまわれ」
 父のことばに涙は流さず、袖で鼻をこすりながら聞いていた。
 ※ 永楽銭は中国の明から入ったお金。
   ついでにおぼえておいてください。伊藤博文さんが総理大臣時代に紙幣を財布に入れて使えるようにしたもので、   千円札に載ったいわれはそのことからです。

 戦いがしたい。子どもの猿は、戦というものをよく知らないながらも、戦国動乱の時代ではあり得ることである。
 明くる年、新しい父ができた。新しい父は猿には冷たかった。人間を見る目ではなかった。
「猿風呂をたけっ」母と妹には野良仕事をさせるが、自分はしない。
 たくましい母は二人の子を産んだ。父は、猿には余計に冷たくなる。
 猿の母は、耐えきれず先の父が残して逝った『永楽銭』を与え旅立たせた。

★ 
橋の下で寝ているときのことである。
 数頭の馬蹄の音に目を覚ました。猿の側を通りぬける野武士めいた男たちに猿は声をかけた。大きな声である。この一団の大将が蜂須賀小六である。
「わしを使ってくれぬか」
 びっくりするほどの大声に一団は馬をとめた。
「こんなところに猿がおるぞ、名前はなんという」
 小六は底に響く声だ。
「猿にございます」
「おもしろい奴だのう、その大きな声を出すほかに何ができる」
「木登りができます」
「猿は木登りは当たり前だ」
 猿はしんがりにいる空いている馬にアブミを使わずひょいと飛び乗った。言葉はかけなかったが小六は猿を認めた。
 無言で馬を走らせた。猿も続いた。
 しかし蜂須賀小六のところには長くは居なかった。すぐにそこを飛び出した。
 安く針買い高く売り、そんな生活をしていたときである。
 馬鹿でかい針売りの声に馬をとめたのが豊前の松下加兵衛。
「そのほうは名は何という」
「猿と申します」
「おもしろい奴だのう名も猿か」
 というわけで、松下加兵衛にかわいがられて住むようになった。
 ところが、松下加兵衛に使えている者たちは、猿が加兵衛に気に言っていることに嫉妬するようになった。失敗ごとや都合の悪いことは皆は「あぁ猿めがさっき」「あぁそれは猿がやりました」
 こんな具合。そんな猿を加兵衛は不憫に思われた。
「猿よ、、この金を持ってどこぞ消えてくれんか、わしのとこでは納戸係りで出世はとまる、お前にふさわしい主は必ず居て、そこでお前を待っている」
 といって三百文の大金をくれた。今までこんな風にみられたことはない、加兵衛の温かい気持ちに涙を流しうなずいた。

★ 
信長との出会い
 信長は、鋭い切れ長の目と高い鼻梁をもつ、実に精悍な風貌だ。ぞうり持ちを仰せつかった猿は。
「これは只者ではない!」
 と思った。この頃のはなしである。
 信長の草履を懐で温め信長から「愛いやつ」として印象づけした。また狩のとき、信長の鷹が木に泊まったまま帰ってこないとき。するすると木に登り鷹を信長にもどしたところからも、信長に厚い信用を与うえた。
 地震で崩れかけた清洲城の修理で二十日間もかかるというのを、たった三日間でやり遂げた。足軽組み頭から足軽大将になり、名前も、藤吉郎、となっていた。
 藤吉郎は二度目の結婚をしたが、子どもには恵まれなかった。
 この頃ねねと出会った。禰(ねね)は木下姓。この頃から木下家の姓を名乗り、木下籐吉郎と名乗る。
 ねねは明るく冗談をいうと甘栗がはじけようにすぐに笑った。


 信長軍の敵は増えて来た。

 三好長逸石山本願寺の衆徒、僧兵。伊勢長島の一向一揆があり、それに浅井長政軍もまだ衰えてはいなかった。
 信長の前にかしこまり、
「殿、わたくしめにお任せください」
 懐柔のうまい猿である。
 猿冠者は、家康の相談役ともいえる、竹中半兵衛を口説き共に飛び回った。近江左和山の城主をはじめ、浅井方の重臣たちを口説き、見方にしてしまった。そして勝利を収めたのである。
「猿、そちようやってくれたぞ。」
 今でも猿と呼び、猿の手をとって労をねぎらった。
 信長は一向一揆に手をやき、比叡山の僧俗女僧侶4千人を焼き払った事件は、このころの事である。

★ 
秀吉が一国一城に
 
秀吉が一国一城になったのは天正元年(1573年)
「猿めもよ働いてくれたわ、きさまに城をくれてやる」
 小谷城が与えられた。秀吉は、ねねと母と妹を城によんだ。父の竹阿弥はよばなかった。二番目の父には嫌な記憶しかなかったからである。(おまえは一生百姓をしてくたばればいい)秀吉はそう思っていた。

★ 
小谷城
 小谷城は琵琶湖が眺められるいい場所だった。
 まもなく居城をうつしその地を長浜と改名し、自らを「羽柴筑前守秀吉」と名のる。
 紋所は、信長は捨てようと思っていた、五三の桐を与えた。たおれた足利家の紋である。これが自分の後の天下を取る者のシンボルとなろうとは思わなかったにちがいない。
 毛利氏についている安国寺絵恵という人は、信長、秀吉のことをこう書いている。
『信長の代は長くは続かない、しかし、秀吉はかなりのしたたか者』だ、という評である。
 秀吉は芦浦観音寺の詮舜に会い。
「うちの若い奴らにこの寺で鍛えてやってくだされ」
 と頼み、かなりの礼金を納めた。この趣旨は、琵琶湖航行権を握っている詮舜の懐柔にあったから、いざというとき軍船をだすに都合がいい、の考え方からであった。実に巧妙である。

★ 
武田信玄の息子勝頼
 武田信玄の息子勝頼が家康に戦いを挑んできた。
「猿出番じゃ勝頼を思いっきり痛めつけてやれ」
 信長は例によって秀吉をうながした。
 秀吉は常に戦いのことは頭から放さない。
「一尺棒と縄を持せてくだされ」
 結果、甲州勢の馬をくいとめそれを鉄砲隊が打ち散らした。
「残るは大坂本願寺だけだ」
 信長は得意満面だった。
 同じ八月には一向一揆を叩きのめしことごとくなで斬りにした。
 これには本願寺は恐れをなして和睦を申し込んできた。
 信長は朝廷から「大納言兼右大将」に任ぜられ、これをきっかけに、家督を長男信忠に譲った。天下統一の地固めは成った。

★ 
英雄のもつ残酷性
 信長の部下、明智光秀が八上城を攻めたが、なかなか落ちないため、光秀は自分の母を人質として城中におくり、代わりに、波多野兄弟を信長に送って和睦工作をした。
 ところが信長は、勝手に波多野兄弟を斬ってしまった。このため光秀の母も八上城内で虐殺されたのである。
 この年家康も、信長のために悲惨な体験をしている。家康の妻「築山殿」が、武田氏に気脈を通じたということで、信長に食ってかかられ、やむを得ず家康はこの妻を殺害しなければならなかった。しかし、それは信長の場合とは少し違っていた。家康はこの妻をそれほど愛してはいなかった。未来を我が手におさめる手段、と割り切っていたのか。
 光秀はこのあたりから信長と対決の炎に着火寸前の状態にあったようだ。

★ 
秀吉の人情
 秀吉には、信長にはない人情味があった。
 兵糧攻めに音をあげた別所長春が自らの切腹によって城兵を助けてやってくれ、と申し出た。
 秀吉は「せめて別れの酒を」と別所を称え、酒樽を城におくった。逃げ去る敵兵をとめ堀さらえや建物の修復に充てさせ、生き延びる道を講じた。
 因幡の鳥取城を攻めたときも、兵糧攻めをした。馬まで食い尽くしたのち人肉まで手をつけたという、これも残忍な行為だが。

★ 
高松城を攻め
 天正十年秀吉は高松城を攻めた。
「小六よ」蜂須賀子六は今では秀吉の絶対服従の下臣である。
「城のぐるりに土堤を築いてみろ」
「ははぁ水攻めでございますな」
 二人は双子のように意気が通る。
「これから雨の時季、城が溺れる」
 大軍で包囲したまま工事は終わった。このころ光秀は信長に叱られていた。
「こんな腐ったような物を家康に食べされるか、ばか者」
 膳をひっくり返した。光秀は悔しさに唇をかむ。そばでは森欄丸がうすら笑いを浮かべている。
 突然「応援をたのむ」の飛報が秀吉から届いた。水攻めをやっていた秀吉軍を、毛利軍が取り囲み身動きがとれなくなってしまった。
「光秀ただちに救援の先鋒に立て!」
 光秀はまっすぐ丹波の自領に戻り軍をととのえる。

★ 
信長の最期
 信長は三十人足らずを連れて本能寺に泊まる。天下人のおごりが兵力を薄くしている。
 光秀軍は老の坂をこえ、沓掛から桂川に向かった。方針を変えたのである。
 (ここのところの詳細は「織田信長」でどうぞ。)
 
「敵は本能寺にあり」
 光秀は本能寺を攻めた。
 夜襲に本能寺は火炎に落ち、信長は火炎の中で、
「熱いのは嫌じゃがのう」
 四十九年の生涯を終えた。
(「熱いのは嫌じゃがのう」は、アントニオ省三が造ったセリフです)

 しかし光秀は土民には人気はなかった。
「わしの戦は正義によるもの、周の故事にもひとしい。せいぜい味方せい」
 といっても、そっぽを向かれるほうが多かった。
 秀吉は信長の家来の大方を味方に付け難なく、光秀を討った。光秀が信長を討った。わずか十日後のことだった。

★ 
秀吉と家康の間にも
 しかし戦国時代のこと、秀吉と家康の間にも、ボタンのかけ違いが出てきた。
 家康ばかりではなかった。信長の次男、信雄(のぶかつ)が家康の袖を引っぱった。三男信孝(のぶたか)が秀吉に謀殺されていたこともあり。また家康も「成り上がり者の秀吉ごときに天下を任せられるか」その頃の秀吉は。柱も敷居も茶道具、家具、食器、屋根の瓦まで金で染めていた。金山、銀山ことごとく自分のものにした。
 正妻ねねのほかに側室がめっきり増えた。その中に十七歳の茶茶(淀殿)がいた。蒲生氏郷の氏郷の妹とら(後の三条の局)にも目をつけすぐ側室にしてしまう始末。
「猿めが増上慢、ゆるせぬ、家康どの我にお力添えを」
 三月に入って信雄が、秀吉の家臣三名に切腹を命じたことが緊張のピークを迎えた。
 信雄と家康は一万七千で秀吉に向かったが、秀吉軍は十万である。余裕がある。
 北政所(ねね)にラブレターなど書いている。信雄軍はどう見ても攻めきれないと見て、引き返してしまった。
 家康は、
「やれやれとんだ無駄骨を折らせやがって」
 とがっかりしたが、臆病者の家康は内心はほっとしたのだった。
※ 家康は臆病者で突撃するときも、そこまでは意気上がってきるのだがそこから先に進まないで「それっやれっやれっ、行け〜行け〜っ」といってヤジに廻っていたという。あまり馬の鞍をたたいてばかりいるので、手にタコができて。『家康の百タコ』ということばまで作られた。

★ 
従三位権大納言
 秀吉は、従三位権大納言、から正二位内大臣、そして関白までのし上った。
 驕り高ぶり金ずくめの城をつくり、思うがままに女狩をしたりもした。
 食べ物も精力の出るもの、といって、加藤清正に虎の内臓を持ってくるように命じた。
 秀吉には子どもができなかったことも原因していた。
「のうねねよ、わしの子を生んではくれぬのか」
 こういっても、こればかりはどうにもなるものでもない。秀吉はその鬱憤ばらし、ではないかも知れないが、今度は、韓国支那を支配する、と言い出した。これには家康は反対だった。
 行長、清正らの朝鮮群は攻撃にてこずんだ。冬の寒さと兵糧は底をついてきたのである。
 そんな折、淀殿の懐妊を知らされた秀吉は、戦いなどどうでもよい気持ちになっていた。
「御子は大坂で生みとうございます」
 と甘える淀殿に、
「よし、よし」
 と頷いて、淀殿を先に大坂に帰させた。
 文禄に年(1593)元気な男の子が誕生した。
「お拾いよ、あばばば〜お拾いよばぁばぁ」
 秀吉の猿顔が崩れっぱなしだった。このお拾いが後の『秀頼』である。
 朝鮮、支那の征伐も芳しくなかった。
 そんな折秀吉は、急にボケ始めた。周りの側室の名前も忘れてしまう始末、狩に出かけた際、百姓をみて「獲物がいたぞっ」と鉄砲で撃ち殺したり、お腹の大きい女を見ると「それはよくないコブだ」などと言って腹を切り取ったり、手に負えない。その頃から「殺生関白」と言われるようになっていた。もちろん、「摂政関白」を言いかえた言葉だった。
 家康からも疎まれるようになった。

★ 
病床に伏した秀吉
 病床に伏した秀吉は、思いつきで大名らを呼びつける。
 五大名の徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝らである。
「もうわしも長くはない、秀頼のことはよろしく頼むよ」
 そして契約書まで書かせるのである。同じことを、二月の大雪のときでもやって契約書を更新させる。「くどい!」と思っても誰もいわない。「もう長くはないだろう」と誰もが思っているからで、我慢をしていた。

★ 
秀吉の夢は
 秀吉は夢を見た。
「のう猿、もういいころあいではないのか、朝鮮なぞ行かないで、早ようわしのところへ来い」
信長だった。
「はっ、しかし、まだやらなければならないことがあります故、もうしばらくは、、」
「ならぬぞ猿、そんなにしがみつくものではないぞ、子どものことは放っておけ、どうにでもなるものじゃ」
「しかし、まだ敵が落ち着いておりませぬ、もうしばらくお待ちください」
「え〜い猿くどいぞ」
信長は秀吉の襟首をつかみ、ずるずると引きずる。
「お許しください、殿、、、」
 秀吉はびっしょり汗をかいていた。
(1593)八月十八日
「ねね、、、」
 ねねの手をとっていた。いや、ねねが手をとってやっていた。
 秀吉は朦朧とする意識のなかで、きれぎれのイメージをまさぐっていた。
 桃の花の咲く中村の里、姉の温かい背中、針売りをして、さ迷い歩いた若き日の自分。足軽長屋、はじめて接吻をしたねねの乳房、馬印の瓢箪、、初めての自分の城…。やがてイメージは薄れ現れなくなった。
「殿っ、、、秀吉殿、、太閤殿っ」
 午前二時、心の臓は止まった。  
 
 最後まで読んでいただきありがとうございました。 
        
                         アントニオ省三
  S48年.9作

 

豊臣秀吉 物語

平家物語
徳川家康
織田信長
豊臣秀吉

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