★【MEMO・周波数3525kHz】弔いのソフトボール
★昨日(07/21)は江藤淳の命日。
あの日の夕刻、鎌倉近辺を襲った集中豪雨の轟きに対抗【concerto】して、キャプテン・モジョ・グループ『酋長の娘』を大音量で聴く。
いっしょに歌いながら、ガンガン(というほどの量でもないが)キリン一番搾り500ml缶×2、ブラックニッカ・オンザロックW×2?3?4?……を飲む。
氏は、僕にとっては唯一無二の北斗七星。
粗く2点。
ひとつは、氏の文芸批評の「やり方」。
その「やり方」が僕の生き方になった。
例=『成熟と喪失』(治者の思想)、また(文芸批評ではないが)『日本と私』(朝日ジャーナル連載12回)〈註@〉。
もうひとつは、消滅ショック(07/21)。
「治者」の文学者に「自刃」はないよ……という気持ちが強くあった(今でもある)。
あの日を境に僕は「面舵いっぱい!」針路を「教育」に――「教育だけが人生だ」に――切り換えた。
★「自刃」を知らされた日の夕刻、僕は子どもたちが帰ったグランドに出て、ソフトボールを夏空に打ち上げた。
何発も打った。
ポ〜ン!
ポ〜ン!
ポ〜ン!
ポ〜ン!
弔いのソフトボールだった。
決別のソフトボールだった。
なお、何発もソフトボールを打ったとき、グランドに出る前にボールカゴの中のソフトボールの数をチェックし、打ち終わった後、ボールはひとりで集めた。(念のために(((( ;゚д゚))))
ただ、どうしても1個足りなかった。
その1個は見当をつけたあたりにはなかった。
まったく見当外れの場所に転がっていた。
★〈註@〉=『日本と私』(3「適者と遊牧民」)から。
『日本と私』は僕の「生き方」に強い影響を与えている。
《たしかに祖父はちょっと輪郭のはっきりしすぎているところがあった。
4歳半のとき母が死んでから十数年間逢っていなかった私が、戦後はじめて三宿のバラックを訪ねたとき、祖父はガウンを着て枕頭に洋書を置き、粗末な木のベットに腰かけていた。
彼は、
「おう、よく来たな。君には永いこと逢わなかったが、君の噂はよく聴いている。いくつになったか」
といった。
祖母が外出していたので、私が茶を入れるのをてつだおうとすると、
「おれがやる。君はみておれ」
ととりあわなかった。
祖父は中気で、便所に立つのをみているとあぶっかしくてしかたがなかった。
しかし、私が手をかしかけると、
「他人の手をかりるとくせになる。できることは自分でする。時間がかかるだけだ」
と妙にやさしい顔をして拒んだ。》
僕は当然、彼はこの祖父のように生きるにちがいないと思っていた(そうしてほしいと思っていた)。
★【起きがけroutine】@WC=× A〈体重測定〉=64.7 〈B血圧〉最高=127 最低=70 脈拍=61 「不規則脈波マーク」=点灯なし。Eコーヒーを沸かす象印コーヒーメーカー「珈琲通」EC-AS60-XB :\3,696を使用、6杯分・豆=ヨーロピアンブレンド20グラム+ホテルレストラン24グラム、計=48グラム)
〈Hきょうの朝食など〉
★朝シャワー中、久しぶりに(何年ぶりか?)ゴキブリ発見。
瞬間的に、窓際に常備のアースジェットと連続噴射。
死ぬ。
しかし、排水口を流れるシャンプーの泡が消えた跡に残ったのはゴキブリではなくカマドコーロギの屍だった。
小さな、小さな「屍」だった。
アースジェット噴射時はもっと大きかったのに。
完全誤射。
ゴメン。
いや、ゴキブリだったらいいという意味ではない。
ゴキブリも同じ。
残酷なことをしてしまった。
ああ、祝園(=ほうその。JR「祝園」または近鉄の「新祝園」)に葬ってやりたい(((( ;゚д゚)))。
★崇神天皇(=3世紀初頭?)に兵を向けたタケハニヤス王は戦で胸を射られ、大勢の兵士が殺された。
その屍骨が川にあふれたことから、この地を「羽振苑(ハフリソノ)」と呼んだ。
「ハフリ」「ハフル」は「放棄」「投げ捨てる」という意味だ。
これが「祝園」の地名の由来といわれている。
亡魂を鎮めるために建立されたのが祝園神社。
画像は奇祭「いごもり祭」。〈画像提供=精華町生涯学習課〉
|