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  親から聞いた話になるが、しばらく遡ることにする。 

  私の父は職業軍人で 獣医である。陸軍の馬のある部隊を転々と転勤した。イ−リンに来る前は満州里にいた。イ−リンでも、しばらくは家族を呼び寄せることはできなかった。治安が良くなかったようだ。

 長春、満州国時代は新京と呼んでいたが、その新京に母と妹と私の3人が仮住まいをして、イ−リンに行く許可を待った。新京は行政の中心都市で日本人だけの学校もあって、4月に、白菊小学校に入学した。制服なのかどうか、紺色の服に白い襟がついていて、半ズボンをはいている写真が親戚の家にあった。残っているのはその写真だけで記憶はあまりない。

 満州里は満鉄の終着駅で有名であった。ここに赴任したときも、父は家族を福井市の母の実家の近くに待たせて、先発した。

  母は25才だった。幼子二人の手を引いて、満州を縦断、一番北端のソ連との国境にある町満州里までよく行ったものだ。勇敢な女であったと思う。アジア号と言う満鉄自慢の特急、絨毯の敷いてある豪華な客車の中で私は車酔いをして吐いてしまい、子ども心にも恐縮した場面を覚えている。

 厳しい冬を過ごすために食料を床下の地下倉庫に入れて置くが、母がそこに降りて仕事をしている時、はしゃいで上を向いて走ってきた私が蓋を外してあることに気づかず落ちてしまい、数日、意識が戻らなかったという話もある。

 このころ、我が家のお手伝いさんにロシア人の婦人がいた。この人のことを白系ロシアの人と呼んでいた。私はかなり成長するまで、肌の色が白いからそう呼ぶのだと思っていた。革命から逃れてきた人だったのだとは大人になってから知った。共産党の革命で革命側を赤といったので、追われた人たちを白系と言ったのだろう。
                                      

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