大連白日夢

 運鈍根著
 今回の大連行きはあわただしく、急な話で決まった。
 このたびの無目的な旅行は、職場に出入りする福士氏、室野氏と話相手の私、この三人の中国談義のなかで、いわばなりゆきで決まったのである。
 福士氏は兵隊のとき以来、室野氏は始めての中国旅行。私といえば、つい数日前に行ってきたばかり。北京、上海と桂林といったような代表的な観光地を避け、北の香港を目指す遼寧省大連を重点に省都沈陽を訪ねることにし、急いでビザをとった。
 どたばた手続きを終え、三人は仙台発、中国国際航空24便の人となったのは、もう初冬の頃であった。

 機中、室野氏は初めての中国旅行に気分高揚、北京産の五星ビールがいたくお気に召したとみえ、飲むこと鯨飲のごとし、片や福士氏は飛行機酔いなのかまったく元気なし。
 世界第一の地ビール大国はそのメーカー数およそ三百社、ブランド数にいたっては調査結果もない。
「福士さんあんだも少し飲んでみたら?楽になりあすんよ」
 勧めたが、
「わぁなす、正月でねぇば昼真っから酒飲まねえのす、んだども飛行機のビールあ初めてだすけわんつか(少し)飲んでみるがな」
「飲ませえでば(飲んだらいい)なんぼ飲んでも只だんだよこのビールは」
 Fさんようやく一口飲んで、
「イヤー!うまぐねえなす(おいしくないね)!このビールはまるっきり馬の小便みったでば(みたいだ)」
 と、まぁ手っぴどい。
 死んだ親父が出がらしの茶をこうして表現していたのを思い出した。経験もないのにあたかも知っているように言うことはままあることだ。
 
 
ハテナ?あたりは決して暗いわけでもないが、それかといって昼の明るさでもない。妙だな。中国都市部特有のスモッグのせいだろうか。それにしてもなんとなく薄暗い感じがする。おかしいな?大連の空気が変わったのかな。なんか足が地に付いてない感じだ。そんな違和感があったが、とりあえず出租汽車(チョゾウチーチョ)(タクシー)を探した。
 宿は前もって国際電話で市内から少し離れるが、馴染みの開発区内の東方大厦
(だいげ)ホテルに予約をいれておいた。

「開発区までいくらでやってくれるか?」
「200元だ」
 色黒の司机員(運転手)は言った。
「だめだ!100元にしてくれ!」
「不(だめ)!何言ってるんだ!まけても150元だ!いやならほかあたってくれ」
「こんなボロタクシーに150元も払えるか!危なくて乗っていられないよ」
 車は90年式中日合併の天津大発(ダイハツシャレード)だ。フロントガラスにひびが入ってビニールテープが貼られている。
「さっき前の車から石が飛んできたから貼ったんだ没問題
(メイメンティ)(問題ない)」
 大連にいたころ、雨降りでなかなかタクシーが拾えず、やむなく客席側のウインドウガラス無く、バスタオル覆いをした車を拾ってえらい目にあった記憶がよみがえる。そのときは後ろに三人乗ったものだから窮屈このうえない。漏れたバスタオルが風に煽られて顔を打つのにはもう笑うしかなかったものだ。その車も今回と同じあずき色の1300CCダイハツシャレードだった。
 すったもんだの交渉の結果、結局120元で手をうった。
 まいったな。100元じゃ無理か。20元の差は大きい。ビールなら5,6本飲めるからだ。今1元は140円ほどのレートだ。
 中国は公共交通機関は安いが飛行機やタクシーは高い。以前の自分なら中国在住の韓国人と思われ、値段の交渉は巧くいくほうだったのに。多分中国語が下手になったせいだろう。
 しかしこの国の経済成長率が十年来二桁に迫るオーダーが続いていることを勘案すれば、物価のインフレもやむをえないだろう。
 十年前にはまだ工事中だった大連市内と金州の開発区を結ぶ高速道路が今は立派に完成し、ものすごいスピードで往来している。
 以前は大連から開発区まで一時間ほどかかってた。大連に滞在していたころに高速道路の計画が発表され、ある日、立ち退き工事が始まるや否や、あっという間に道路の建設工事が始まったのには驚きだった。なにしろ、共産党一党独裁国、土地の私有権などないのだから、立ち退き命令には従わざるを得ないわけだ。それでも、国は代替物件だけでは提供してくれている。計画から完成まで三年ほどで完成したと聞いた。 
 開発区までの車中、運転手は先ほどのけんか腰の値決め交渉はどこへやら、しきりに私の中国語をほめちぎる。そんなことより、運転中に後ろを振り返りながら話すのにはまいった。

 
肝を冷やしながらも三十分ほどで開発区に着き、ホテルの前に降り立った。いきなり私の目の前に現れた彼。
「アイヤー!お久しぶりです、運先生」
「あなた姜さんじゃないか!十年ぶりだなぁ」
 お互いに強い握手を何度も繰り返して、抱擁しあう。その時分彼は東方ホテルで営業部長をしており、私が日本企業の駐在員としてホテルに二年間滞在していたころ随分世話になった。前回大連を訪れた際は市内に宿泊したので姜さんに逢っていない。あまりに久しぶりだから、お互い口角泡を飛ばすという態で、話すことが先にたって、ほとんど相手の云ってる事は頭に入らない。
「ところで今どうしてるの?」
 私はトンチンカンに何度も姜さんの現在の仕事と住まいのことを尋ねた。姜さんは姜さんで、「いつ中国に来ましたか?いつ日本に帰りますか?」
 何度も同じことを聞いてくるのであった。
「食事は済みましたか?ご一緒しましょう」
 と、姜さん。
 福士氏は元気なさそうな顔で不安気にあたりを見回しながら…。
「わぁあまり脂っこいの喰いだぐねな」
「ぼくは構いませんよ、何でもOKです」
 若い室野氏は、期待でいっぱいという様子。
 とりあえずチェックインを済ませ四人は東方大厦二階にある中華レストランに入った。
 レストランは夕食前の時間なので閑散としていたが、店内の様子は以前と少しも変わったところはなかった。
 姜さんは現在、副総経理(副社長格)だから服務員の我々一行に対する態度はきわめて丁重である。それはいいのだが、姜さんはときおり大声で服務員を注意するのでこちらは落ち着かない。
 姜さんに二人を紹介した。
「こちらは福士藤吉さん、元鋳物屋さんで若いころ兵隊で江南から華北に転戦した経験をお持ちです。任務は軍馬の世話係りだったそうです」
 出来れば戦争の話は避けたかったが、水墨画や漢詩を趣味とする福岡氏を紹介するのには仕方がなかった。
 室野氏は現職の自動車学校の教官で、中国からの留学生に車の教習をしたのが縁で中国大好き人間になったことなど伝えた。
「運先生は老朋友
(ラオポンヨウ)(目の上友達)ですが、友達の友達は皆友達ですから、お二人とも朋友(友達)です」
 なんかの歌の台詞にあったようなことを姜さんは云う。
「それでいつ中国に来ましたか?」
 姜さんの質問がまた繰返された。
「先刻着いたばかりですよ、それにしても早い飛行機でした、あっという間に大連ですからね」
 室野氏は信じられないという風に腕時計を見ながら云う。
「そうでしょうね、中日の間はますます友好的に発展していますから時間の短縮の短いことなんの不思議ないですよ、さあ中日友好に乾杯しましょう」
 室野氏は信じられないように壁の掛け時計と腕時計を交互に眺めて、
「あのう、、、」
「ガンベー!」
 姜さんは自分のことしか考えていないようで。怒鳴るような大声で音頭をとったので、室野氏の質問はかき消されてしまった。
 
 歓迎宴が始まった。飲み物は大連ビールと酒精度は55%の白酎である。白酒といっても日本の雛祭りに飲む白く濁ったものではなく高梁を主原料にした極めてくせのある透明な酒である。赤みのある紹興酒などの「黄酒」に対し「白酒」という。紹興酒は醸造酒だが白酎は蒸留酒だ。この次はぜひ紹興を訪ねて、(かめ)から汲んだのをどんぶりで飲んでみたい。
 十年前、中国に赴任早々招待された結婚式で慣れぬ白酎の乾杯攻めにあい、意識不明になった苦い思い出がある。
 料理はまず、日本でもおなじみのさまざまな前菜の次に「蝦蛄
(かこ)の漬物」が出てきた。これは生きた蝦蛄を白酎と塩で長期間発酵させたもので、沿岸地方の郷土食だ。
 一口食べた福士氏は口を押さえたまま、トイレへ駆け込んでしまった。
 十年前、私のために大連での送別会を開いてくれた国営水産公司(会社)の曹課長の勧めでこれを食したことがあったが、いかもの食いの小生でも、とてもじゃないが生臭くて戴けなかった代物である。観光客が口にする機会はまずないだろう。
「アハハハー、、日本の塩辛と比べてどうですか?」
 と姜さん。そりゃそうだ、いかの塩辛だって駄目な人がいるものだ。以外にも室野氏は顔をしかめながらもなんとか飲みこんだようだ。馳走に応える正しい態度である。
「ウグァー!珍味ですね!この味は何に喩えればいいのかなあ?なんとも云えないです」
 室野氏は泣きそうな顔で55度の白酎を一気に呷った。三鞭酒という銘柄で犬と鹿、それにオットセイのペニスを白酎に漬け込んだもので、非常に元気になるらしい。小生も滞在中に一本戴いたことがある。私はこれに食物性成分として長白山人参と大蒜を漬け込み、五根酒と名付け、疲れたときなどにチビチビやっていた。効き目?いわずもがな。
 ところが、半分も飲まないうちに帰国することになり後任の日本人に差し上げてきたが要らぬお世話だったかも知れない。
「福士さん、ご気分が悪いの感じがしますです。中国では医食同源というのことですから、元気になる食べ物出します」

 姜さんの日本語は
以前と比べて大分あやしくなったようだ。
 福士氏は初めての酔いのせいか元気がない。生蝦蛄の漬物の次には[蚕の蛹のから揚げ]と[さそりの天ぷら]が、丸いテーブルに並んだ、どれも栄養豊富、薬になるという。特に蚕の蛹は蛋白源として、人々の好物であり、市場では生きた物を必ず売っている。大きさは親指大、色は褐色、形は指状、表皮が蛇腹状で、そいつがときどきビクリと動く様はあまりいい気色ものではない。三個で牛乳一本分の栄養があるという。鍋でガリッと炒めると中はプリッとして蝦の味がする。続いて[豚の血の腸結][蚊の目玉のスープ][なまこの煮込み][活海老のおどり]などなど。絶品だったのは[雄鶏のペニスと睾丸と白菜の煮込み]である。玉ちゃんのシコシコした食感は、えもいわれぬ味わいである。ペニスは白っぽいピンク色だが、玉ちゃんは金色じゃなく白だ。
 酒が入ると卑猥な話題になりがちだが、姜さんは[雄鶏の玉ちゃん煮]の効能については、元気になります。の一言で済ました。一般に酒席で猥談を好むのは日本人の方だ。
 福士氏は、
「ほい!運さん何だいこりゃ!こったに蚊の目玉、どうやって集めるのだべ、食うにいいのかい?おら兵隊で支那さ居だったんどもこったらの食ったこどあねぇよ」
 そりゃそうだろう、兵隊さんが食べるような料理じゃないもの。福士氏は気味悪そうにしてどれにも箸をつけようともしない。
「味噌汁ぁながんべぇども、ただの白い飯ど、沢庵がながべが」
 福士氏の八戸弁を姜さんにも理解できるような日本語に更に翻訳しなければならないので疲れる。福士氏のために、ライスとザーサイが追加注文された。
「ああそれなら中国でも流行っている契約栽培です」
 姜さんの説によると、この蚊の目玉のスープは広東省から中国全土に広まったそうで『食は広東にあり』というが、珍奇な料理は南から伝わることが多いという。
 このスープは西太后の好きな一品だったと、ものの本にあった。
 ところで、こんな話がある。
 ある飯店で客がスープに浮かんでいる一匹の蚊に付いて、服務員(店員)を呼び付けたそうだ。客険しい顔で、
「小姐、
(ねえちゃん)これは何だね?」
 服務員、涼しい顔で、
「あぁそれ蚊じゃないの」
 客カーッとなって、
「蚊は判ってる、だからこれは一体どういうことなんだと聞いているんだ!」
 服務員
「お客さん、大丈夫よ、もう死んでいるから刺しませんよ」
 今ではこんなジョークは考えられないだろうが、十年前の中国における服務員たちの態度はひどいものだった。店で買い物のときなど、ショーケースの前で丼のぶっかけ飯を食べていることも珍しいことではない。そんな時注文でもしようなら「没有」(めいよう)「要りません」の一言で片づけられる。顎で品物を指されたりしても決して怒ってはならない。本人はいたって当たり前のつもりだから。逆に食ってかかられる始末になる。
 (昭和四十年代の中国は、アントニオ省三のホーム(聖徳太子とアントニオ省三)を参考にしていただきたい)

 
ここでアントニオ省三の話を少し。
 
日本に母と一緒に来られた若者。母と一緒にデパートに買い物に行ったときのことである。
 若い女店員さんがにっこりと、
「いらっしゃいませ」
 この応対に若者はびっくり。ホテルに戻ってから母に。
「お母さん、ぼくにいいお嫁さんができそうだよ」
 と言った。母も半疑ながら、
「そう良かったわね、でもどこの方なの?」
「とにかく明日もう一度あのデパートに行ってみようよ」
 …えっ日本人の?…母は意外と思った…
 翌日またそのデパートへ行った。
 昨日入口いた店員さんは今日はそこにはいなかった。若者は。
「昨日こちらにいらした方は?」
 別の店員さんは、
「あぁそれでしたら今日は休みになっていますが、今日は家族でこの上のレストランに来ていますよ、ご用件をお伝えしてもよろしいですが」
 若者はがっかりしたが、一応、と思い、四階のレストランへ。遠くからみた家族三人の姿をみてさらにがっかり。
 ところがこれでは終わらない。
「待てよ、さっきの店員さんこそぼくにぴったりだ」
 と。そのあとのことはわからない。

 閑話休題
 
もちろん今ではサービスの概念が浸透し、都市部では快適なショッピングができるのはいうまでもない。蚊の目玉といっても日本の蚊を考えてはいけない。大陸の生き物は何でも大きいのだ。たらこなどは、米の一粒ほどあろうか。とろりとしたスープの上で無数の蚊の目玉がこちらを見ている。もっとも蚊の目玉を集めるのに高くつくので、川カジカの卵で誤魔化す場合があるというが、今回のは本物のようだった。味の方は驚くほどうまいというわけでもないが、むしろ味付けで素材の珍奇さを強調している感じだ。
 近時、海燕の巣がグルメに珍重されているらしいが、期待したほど美味ではなかったと、よく聞く。たいていの場合それはハルサメで代用したものらしい。
 ハプニングはこの後起こった。
「わっ凄い」
 室野氏が深皿の蓋をとって叫んだ。数十匹の赤黒い生きた海老が、透明な液体の中で蠢いていた。
「あーそれは酔活竹蝦ですよ。酒につけた生きた海老ですね。跳ねないように酒に漬けて眠らせてあります。調味料を少し付けて食べてください。こうして葱と一緒に食べると体に良いです」
 姜さんが器用に海老の殻をむき、頭をとり芯を抜いた太い葱に海老を押しこんで、中国醤油をたっぷりつけて、実に美味そうに食べて見せた。
「福士さん、どうぞこれは絶対に美味いよ!遠慮しないで」
 と、私。
「どりぁわも(私)喰ってみるがな」
 と、今まであまり食欲を見せなかった福士氏が新鮮そうな海老につられたのか、皿に手を出しかけたときである。突然パシャと音がして一匹の大ぶりな海老が皿から福士氏をめがけて飛び出した。
「ひえっ」
 悲鳴とともに福士氏は後ろにのけぞったが、ご老体だから動きが遅い。海老の顔面攻撃に遭い、そのままドッとばかりに椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。
「あいや〜」
 予想外の海老の動きと、福士氏の緩慢な動作によって起きたこの椿事に、福士氏には悪いが、なぜか無性に可笑しかった。笑っちゃいけないのに笑いを禁じえない。気の毒なのになぜか可笑しいのである。室野氏もおかしさを堪え、泣きそうな顔である。このとき不謹慎にも小生はエイリアンの幼虫が人間の顔に取り付いた映画のワンシーンを急に連想したのである。
 慌てて福士氏を助け起こしたが、打ち所が悪かったのか気絶していた。
 大変だ、笑っている場合じゃない。
「姜さん救急車を呼んでください」
 店内の客と服務員たちが周りに集まってきた。姜さんが福士氏を起こして、頬を何回か叩いてみた。 福士氏はいい塩梅に目を覚ましてくれた。
「大丈夫ですか?」
「あぁいでぇ(痛い)いや〜びっくりしたじゃ、あのいびぁ(海老は)酔った振りして酒っこ飲んでながったんだべぇ」
 姜さんは、ぼくの言葉を皆に通訳した、周囲は爆笑し緊張が解けた。

 ところで可笑しさなら
この話だ。演出家であり、作家でもある久世光彦氏のエッセイ『マイラストソング』にある。
 氏がさる有名人の葬儀に参列したときのこと。葬儀はキリスト教式で行われたから当然のこと、賛美歌が歌われた。式場は厳粛にしてしめやかな空気になっている。氏は賛美歌を心得ないから頭をたれていると、何となく会場がざわめいて前の人の背中が震えているのに気づいた。辺りを見ると人々が同じように、懸命に唇をかみ締め笑いをこらえてた。氏の耳にどこかで聞いたことのある歌声が朗々と聞こえてきた。人の肩越しに覗いてみるとその声の御仁は前列に陣取った森繁久弥氏だった。氏はあの独特なこぶしで賛美歌を唱和していたという。久世氏は教えてくれる。
 笑いの本質はここにあると。つまり開放された笑いではなく、抑圧された状況の中で濃縮された悲しい可笑しさこそ真の笑いだと。氏は誰にでもある似たような経験を珠玉のような文章で思い出させてくれる。

 さて、頭を打ったかも知れないので、やってきた救急車に福士氏を乗せ、姜さんにも通訳代わりに付き添ってもらうことにした とりあえず開発区内の一番大きな病院に向かった。受付窓口で姜さんから事情を話してもらったが、事務員は先に金を払えという 所変わればなんとかで。しょうがないから金を先に払って診察を待った姜さんは、自分の招待だからわたしが払います、といって聞かない。揉めるのもなんだから、好意に甘えることにした。

 当然だが日本に帰るときは、答礼宴はこちらで持たなければならない。しばらく待たされた後、福士氏の番になった。心配だから一緒に診察室に入りたかったが、看護婦に断られる。五分もしないうち福士氏は出てきた。
「何ももんだいねえず(無いそうだ)レントゲンも撮らながったよ、先生はおなごで、日本語もたいしたもんだ」
 案じたほどでなく、ほっとして四人はホテルへ戻ったのである。食事の途中だったが大事をとって宴会は中止し、各自部屋で休むことにした。
 服を着たままベットに転がって目を閉じていると、旅の疲れと白酎の酔いがまわり、そのまま眠りに引きずり込まれた。
   
最後までお読みいただきましてありがとうございます。
                  
                     
   
                           平成20年3月自遊放送
より

中国人は挨拶で握手を求めてくる。頭を下げるのは日本人。初めて合った時頭を下げてくるので、あぁ日本人だ、ってことが分かるらしい。
今は両国を一緒に合わせたやり方になっている

中国旅行 
大連の巻

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