昭和三十五年春。星野中学校卒業後、葛巻町立酪農研修所に入所した。
 当時の所長は北海道から来られた伏木健太郎さん、町長は遠藤喜兵衛さんという方で,先生は大上さんと本宮さんという方でした。お二人の先生から一年間研修を受け、昭和三十六年春から家に戻って一頭の乳牛から初めました。
 それから二頭三頭と徐々に頭数を増やし、十年後農業後継者資金五十万円を借りて角型サイロ五千がんを二基作り、残りの金で妻の実家より一頭の初産牛を買い規模を拡大しました。
 しかし専業にはまだまだ頭数が少ない、収入も少なかったので、副業に車を買い、鷹ノ巣の数軒分の牛乳を『守山牛乳』というところまで運ぶことを考えました。当時農協の参事は、外久保さん、理事は寺畑さんでした。二人に牛乳を運ぶことを何度かお願いをして、やっとOKをいただきました。
 五、六年したころ、農地取得資金が必要になり、取得資金は農業委員会を通さなければなりませんでした。委員会の事務局は砂子の下屋敷さんでした。下屋敷さんにはたいへんお世話いただき、十三ヘクタールの土地を取得することができました。
 それから三年ほどして、いつも行われる酪農座談会で、農業公社牧場の話を聞いて仲間五人でこの事業を進め、事業に参加して規模拡大をすることにしました、が、そのころの私は大変な借金(購買未納収金、その他もろもろ)があるため事業に参加していては総合資金一千七百万円借りてある返済ができなくなる、酪農経営が困難になりました。夜も眠れませんでした、テレビも見えませんでした。今でも子供たちからは、「テレビが見えないか?」と、笑われることもしばしばあります。
 そのような状態が数年続き、借金は雪だるま式に…。
 そうしているうちに、岩手県畜産会の畜産コンサルタント指導を受けることになりました。畜産会の方から山影さんともう一人の方から三年ほど指導を受けました。その人たちからみれば、― もうダメかな ―、と思ったこともあったようです。
 そんな折、県のほうから一通の手紙が届きました。内容は、『自作再建整備資金の申し込み』でした。この資金の窓口は農業委員会でしたので、早速農業委員会に行きました。
 事務局の担当者は高家さんでした。経営計画証を作成するために、役場に夜七時ころまで…、そして書類を作成していただきました。二日間もかかり高家さんには大変なお世話をいただきました。それは一生忘れることはないと思います。
 県のほうからは、「農協、農業委員会、普及所、本人の四人で県庁まで来るように」とのことでした。
 県と信連からは三名程度でしたが、集まっていろいろ聞き取りされたりするところは、まるで裁判所で被告席にいるようでした。そのときは私と西根町の養豚経営者の二人でした。
 それから一週間ほどして貸付決定となり、今まで延滞していた資金を何とか返済をして苦難を乗り越えることができました。
 話は前後しますが。車の仕事をしているときに、ある人から、
「お前も車の仕事をやめて酪農一本で行ったらどうだ」
 といわれました。その人は、落合圭介さんという方です。 落合さんは、
「山で兎を捕るとき二匹を追うより一匹のほうが捕れる可能性がある、それと同じであるのだから、おれの言うことを聞いてやってみろ」
 と、何回か言われて、私も、 ― そのほうが良いのかな ― と思うようになりました。
 それから二、三年ほどして車の仕事をやめ、酪農経営に取り組むことにしました。
 北部機械利用組合の五名と一緒に機械の共同利用、そして農作業も共同化して、耕地面積十七ヘクタールを三日間で処理をして、自給率を高め、経営内容も少しずつよくなる方向に向き始めました。
 当時私は、利用組合の組合長を務めておりました。
 昭和六十二年、葛巻町畜産振興協議会より、『優良営農集団』として表彰を受けたこともあります。
 なんとか大変な時期を乗り越え、今では一頭あたりの平均乳量も八千五百㌔となり、金額の大きい総合資金もあと二回で終わろうとしています。
 しかし、自分ももう歳。年の持ち分も少なくなってきている。歌の文句にもあるように、
 ― やってやれないことはない、人のやれないことをやれ ―。
 これはすばらしい歌だなぁと思う。私は他人がやってやれないことをして来た、というわけではない。そうせざるを得なくなった時にこそ、踏ん張って頑張って来られたんだと思っている。
 そのパワーは私のどこにあったんだろう。
 これからは老後の生活、今までの分まで楽しみたいと思っている。
 今日は仙台の旅行に発つ。
 出発 
                
      或る酪農家の自叙伝  岩手郡葛巻町葛巻 中村喜一氏の自叙伝である 平成十九年 作   
或る酪農家の実録である
     
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