1 ♪緑の地平線 
 蒲田駅前商店街のアーケードの真ん中あたりに、『スター楽器店』があった。60年続いた老舗だが、平成22年に店を閉じた。
 楽器店からはいつも音楽が流れていて、アーケード街の人たちの心を和ませてくれる。楽器やさんの主人と私の父は、町内会で何かの役をやっているらしく、時々うちに来て話をしたりお酒を飲んだりしていた。
 ある日、スター楽器店の前を通ったときである。軽快なリズムの音楽に足が止まった。ボンゴとギターで歌謡曲。私は歌謡曲はあまり好きではなかったが、立ち止まってその曲をずっと聴いていた,すばらしかった。早速楽器店に入り、
「この曲はなんていうの?」店にはあまり愛想のよくないお兄さん、笑顔を見たことがない。「緑の地平線っ」とだけ言って私のほうを見ようともしない。このお兄さんはレコードを売る気があるのかい。奥から主人が出てきた。
「おっ省ちゃんか、省ちゃんはこんな曲が好きなのかい」主人もこの愛想の悪い店員をもて余してるらしかった。
「これはねえ、古賀政男さんの楽団で、ギターロマンティカの人たちの演奏だ。わしもこの曲が好きなんだよ」と説明してくれた。
 家に帰ってからも、その曲が頭から離れなかった。あんな素晴らしい演奏は人間がやっているとは思われなかった。
 よし、ギターを習おう、練習すればいい、少しだけでもあの演奏者達に近づくことができればいい。だがギターがない。翌日学校の帰りにその楽器店に寄った。今日はあのお兄さんは休みらしく、主人が一人いた。天井に架かっているギターはどれもメーカーもので、全音、信濃、古賀、どれを見てもすばらしい。だが値段をみてびっくり、最低の物でも800円、最高のものは10,000円。父の給料は月3,000円位だった。私のお小遣い月50円、とても手が出ない。毎日のように、その楽器店に寄ってギターを眺めてた。見ているだけでも楽しい、気持ちがよかった楽譜は古賀作品を1枚2枚と買って集めた。家に帰ると,箒をギター代わりにして、レコードに合わせ演奏の真似をしていた。
 12月のことだった。夜、楽器店の主人がきて父と話をしている。時々大きな笑い声がした。私は9時になったら布団に入る。
 朝起きてみると、枕もとにケース付のギターが置いてあった。楽器店の主人が昨夜弾いていて、酔っ払っていたので置いて帰ったんだろう。すぐには気づかなかった、昨日はクリスマスイヴ。「えっまさか」ギターケースの上にメモらしきものがあり「メリークリスマス」と書いてあった。父の字に間違えない。父は茶の間で新聞を見ている。
 飛び起きて着替えをし、早速父のところに行き、初めて父に。
「お父さんありがと」といった。少し照れくさかった。
「少し奮発したんだが、店の親父さんと二人からだ、後で礼を言っとけよ」
 商売は儲けることだけをするのかと思っていたが、生まれて初めて感謝と感激の涙が出た。今日は学校も休みだし、思いっきりギターを弾けるぞ。昼頃楽器屋さんに行ってお礼を言った。家に帰るとすぐギターの音合わせをして教則本に向かって弾いた。
 1月ほどして、最初の壁にぶつかる。誰かに教わったほうがよいと思った。ギター教則本の最後の方に『古賀ギター音楽院』の入校要領が載っていた。よし古賀先生から教えてもらおう。今は思い出すだけでも身震いがする話だが…。

 2 古賀政男
 日曜日、番地を追って世田谷の古賀先生宅を訪ねた。品川でバスに乗り換えた。バスを降りて近くのたばこ屋さんできいた。たばこ屋さんから2分もあったか、大きな屋敷。表札に、『古賀』とだけ書いてあった。呼び鈴を押した。古賀先生が紺の着物姿で出てきた。本の写真で見るよりずっと恐い顔をしている。少したじろいだ。だが言葉はやさしかった。
「どうしたの?」
「はい、先生にギターを教えていただきたいんです、蒲田から来ました」
 古賀先生は笑いながら、
「ぼくはいくつかな?」
「はい小六です」
「あっそう、ギターが好きなのね、よく遠くから来られたね」
「はい先生のレコードが好きで毎日聴いています」と言っても、緑の地平線の演奏のレコードだけだったが、子どもながらもお世辞は心得ていた。古賀先生はにこにこしながら、着物のふところから名刺を出して、
「じゃねぇ、ここへ行ってみなさい」
 名刺の裏には地図が書いてあった。表には『古賀ギター音楽院校長 古賀政男』とあった。
「がんばってね」といったあと。
「蒲田からは遠かったでしょう、これ帰りの電車賃の足しにしなさい」といってふところから紙入れを出し,聖徳太子(千円)をくれた。
 ―えっ私のお小遣いの約2年分―、少し戸惑いをしたが、
「ありがとうございます」 
 遠慮なくいただいた。ポケットに仕舞うとき辺りを見回した。強盗に狙われる気がしたからだ。再度お礼を言って古賀邸をあとにした、角を曲がるとき、振り返ると古賀先生は手を振ってくれた。

 古賀歌謡音楽院の世田谷校は、古賀邸から10分のところにあった。
 ドアを押して中に入ると、右側に事務所があり、一人のご老人がギターを弾いていた。ご老人は私を見るとギターを止め近寄ってきて、
「入校かねぼくは」ご老人は私の持っている名刺を見て、
「古賀先生のところから来たんだね」
 簡単な手続きをし月謝100円を払った。150円の入学金は免除してくれるという。
 部屋に案内された。中には3人が居て、これからの説明を待っているらしい。偶然にも今日が週一回の入校日になっていた。

 3 トベヤスオ
 トベ先生が入ってきた。
「
「お待たせしました、私が古賀学院世田谷校の講師のトベです」ゆっくりした話し方でトベ先生、
「本日はご入校おめでとうございます」 
と言って話始めたが、?このおじさんは?、実はこのゆったりした話し方をするご老人は、ただのご老人ではない。コガ・ギターメンバーのトベヤスオ氏であった。派手さがないのでただのご老人にしか見えない。私と4人が歌謡学院世田谷校の今日の入校生だった。
「まず初めに校長先生のプロフィールをご紹介しましょう」といって話し始めたが、あまり埒があかないような話っぷりに、本当にギターを教えている先生かなと思ったくらいだった。
ー ここからはちょっと違う感覚で読んでいただきたい。ー
「あぁ~古賀先生のお生まれはですね~、う~とぉ~長野ぉ~いや秋田ぁいや北海道はワッカナイ、あぁちょっと、わっかない」
 洒落なのかなんだか。

「
あぁ~先生はですね~大学のころはですね~初めはマンドリンをやっておられましてですねぇ、それからマンドリンクラブを結成されました、その大学は、えぇとぉ~専修~大学じゃないな~、えぇと~立教~大学でもないなぁ~、早稲田じゃないな~、ワセダぁ?あぁもうワスレダ」と、洒落なんか言ったりしてほんとにもう。お生まれは九州、明治大学マンドリンクラブでしょう。 ー ここから元の気分になって読んでください。ー

 4 オーディション
 毎週二回、土曜日と日曜日に通った。私も中学生になったある日、古賀歌謡音楽院のオーディションが開かれることを聞きました。そのオーディションで選ばれた者は、古賀先生に直接指導を受けられプロとしてデビューできるし、レコーディングもできる。又、古賀ギターロマンティカのメンバーに入れてもらえることになるのです。その確立は,000分の1。何故なら古賀歌謡学院には8,000人の生徒がいる。私の通っている世田谷校だけでも200人,古賀歌謡学院は関東に40校あるから、単純計算でそうなるのだが…。
トベ先生は,あんたも出てみなさい」
 と言ってくれた。びっくり仰天。私はまだまだ中学校を卒業するまでは…。だが先生は、
「申し込みは済んでいるから必ず出るように」
 という。…ほんとにトベ先生ったらもう…。
 よし出てみよう覚悟を決めた、経験することもいいだろう。
 課題曲と自由曲を一ヶ月間みっちりやった。
 
 その日がきた。 
 代々木のスタジオはさすがにすごい。ガラス張りの防音装置になっていて、外側から演奏者は丸見え。   
 私の出し物は、自由曲と課題曲。課題曲は、私は藤山一郎さんが歌っている、♪丘を越えて♪だった。この曲は前奏が歌詞部分より長いので有名な曲でもある。
「出演者はスタジオにお入りください」アナウンスされた。いくら広いスタジオでも全員入りきれるのかなぁと思っていたら、今日のオーデションは、何んと、たったの10人だという。ガラスの外では、200人ほどの目がこのスタジオに注がれている。演奏順を決める鉛筆が用意され10人がそれぞれ鉛筆を取った、緊張する。ええっ~なんと、私がトップで演奏することになった。五分前、目を瞑って…、無事に演奏を終えられればそれだけで良いと思った。演奏はどうでもいい早くこの緊張の場から抜け出したい、そんな気分にさせられた。五分前に精神安定剤、『コントール』を飲んでいたが、効き目はまだのようだ。10人の演奏者は演奏するマイクから10mほど離れた位置で開始と順番を待つ。
 古賀先生が入ってきた。中央の長い大理石のテーブルに座った。ピンクのビロードのスーツに、襟は茶のモール、左手には5個の指輪が光っている。目の前のマイクロホンをチラッと見ただけで、両手をテーブルの上で組み、目を瞑って動かない。まるで、閻魔大王が悪人を裁くときのように見えた。審査を公平にやるために精神の統一をしているのだろう。私の緊張がピークに達した。「
「それでは1番の方、お願いします」アナウンスされた。後で考えると、古賀先生の前までよく歩けたと思う、それほど緊張していた。
「1番、アマモトソウゾウです、おろしくおれがいします」
 呂律が回らない。閻魔大王は…いや古賀先生はゆっくりと目を開いた。
「あぁいつかのぼくだね、がんばってるの?」
 二年ぶりに古賀先生が話しかけてくれた。「もう中学生になったんだね」
「はい二年生です」
 そのあと古賀先生は。
「だいぶ緊張しているなぁ。それじぁねぇ、大きく息を吸って、ゆっくり吐いてごらん」
 言われたとおりにやってみた。 あれっ!緊張感がどこかへ消えた、無い不思議だ。医者の言葉は薬より効くとも言うが…、古賀先生は医者よりすごい。
「自由曲は何をやってくれるの」
「はい、『禁じられた遊び』を練習しました」緊張をすれば楽譜は飾りだけになってしまうことがあるが楽譜を見れた。実際は楽譜は不要なものだが、両手の五本指もちゃんと動いた。無事に、丘を越えてのも演奏できた。席に戻ったときに初めて全身に汗を感じた。

 5 鶴岡雅義
 五番目に演奏した男に、後に有名な鶴岡雅義がいた。ちょっと日本人離れしていて、ベトナム人のような人だった。余裕なのか、事を分かってないのかという感じで、ポーッとしている。しかし演奏は見事だった。自由曲も自分で作曲したものだという。
ー ここで、鶴岡雅義さんについて少し ー。
 私が八戸に来て間もない頃だった。鶴岡雅義と東京ロマンチカのディナーショーがあった。私も鶴岡さんと逢うのは十数年振りになる。ディナーショーが始まる前に楽屋にお伺いした。珍しくメンバーは皆揃ってうどんが好物。皆うどんを啜っていた。江陽閣でうどん?まぁいいとして、
「鶴岡さんしばらくです」鶴岡さんは箸を置いて、
「はぁ、、どなたでしたっけ」
「すみませんこんな時にお邪魔して、どうぞ食べながら…。 まぁご記憶に無いと思いますが、実は古賀オーディションに鶴岡さんと一緒だった山本という者です、今はアントニオ省三と言っておりますが…」
「はぁヤマモトさん、ふ~ん」
「あの時のオーディションでは私はジュウイ(十位)だったんですよ」
「はぁ?お牛やお馬のお医者さん、をされていらしたんですか?」
「いえいえ獣医ではなく、十位、最下位だったんですよあのときは」
「はぁそう言いえばだいぶ下手な方が一人いらっしゃいましたね」
「鶴岡さんそこまでは言わないでくださいよ」
 他のメンバーは笑ってる。彼も当時を少しだけ思い出したらしい。その後、最近亡くなられた古賀先生の話になった。   彼は泣き始めた、眼鏡を外し、しきりに涙を拭く、「コガ…コガ…コガセンセイ……」その後の言葉でてこない。恩師の死に相当ショックをうけてたらしい。うどんを啜っているのか、鼻をすすっているのか分からないほどになっていた。ショーはもう一時間ほどに迫っている。
「じゃがんばってね、一番前でみてるから」
 と言うと彼は、
「あのう、後でテープ買ってってね」
 泣いて鼻を啜っていても商売っ気は忘れない、さすがプロ。あんたのテープもレコードも全部持ってるよ …。
 
 6 イトウという男

 6番目の演奏者だった。古賀先生の前に挨拶も無くポンと座り、ギターをひょいと縦に構えると、いきなりラスギァートから入った。曲は、ラ、マラゲ―ニャだった。演歌の大御所、古賀政男の前でラテンを弾く?こいつは只者ではない。演奏途中も体をゆすったり意味のわからないラテン語を発しながら首を縦横に振ったりと。変な掛け声で自由曲を終わり、課題曲に入った。しかし、そのラテン演奏はみごとなものであった。ラスギァートの多いこの曲は、奏法は右手指の4本使いと3本使いでミスることが多いにあるが、この男はミスらない。課題曲の「三百六十五夜」も目を閉じたままで流れるように演奏を終えた。戻ってきたその男は、わたしの隣にペコンと座り、私に。
「君、これ終わったらビリヤードに付き合わない?」
 今演奏が終わったばかりだぞ、興奮が残っていないのかこの男は。
「えっあぁ」
 返事が終わらないうちに、
「あぁ付き合ってくれるね、ありがと」
 といって、腕を組んで居眠りを始めた。なんていう男だこいつは。
 10人の演奏が終わり、少し休憩が入り結果発表を待つ。私が呼ばれることはまず無いことだが…。隣の男はまだ寝ている。相当に我がままに育っている奴だろうなと思った。
 アナウンスがあった。
「お疲れ様でした。結果を発表します。今日の皆さんすばらしい演奏でした」 
 私は初めての参加でまず呼ばれることはないが、レベルはわからない。
「3人の方がノミネートされていらっしゃいます」
 その瞬間ガラスの外では、拍手が起こっていた。その拍手で今年はレベルが高かったことが分かる。
「次に呼ばれた方々は、明日もう一度このスタジオにおいでいただくことになります。」
 5年に1人か2人しか選ばれないこのオーディション、今年は大豊作だという。3人はいったい誰と誰だろう。自分は選ばれないことは分かっているが、でもどこか期待する気持ちがあるものである。一言でも“山本”と呼んでくれないかと、小さな期待をしていた。
「では発表します。三位の方からです、、三位の方は、、山本…」
 えぇっ来た来た~っ本当?。だが、アナウンサーは続けて。「山本丈晴さん、おめでとうございます」えっ、山本って、二人もいたのこの十人の中に。自分は呼ばれないことは分かっていることだが、少しがっかりした。去年週刊誌でみた、あの山本富士子さんの旦那さんだった。二位は鶴岡雅義だった。拍手が続く。はて一位は誰だろう?
「今回の第一位の方は…」少し間をおいてから、「エントリーナンバー6番、イトウサダユキさんです、おめでとうございます」
 えっこの今居眠りしている態度の悪いこの男が?でも演奏はピカ一だったからな~。しかし、このイトウって男はあのすばらしい神がかりの演奏は、どこでどんなレッスンをしているのだろうか。発表が終わり周りが少し騒がしくなったのでイトウも目を覚ました。「おめでとうございます、すばらしかったです」といったが、イトウは、「んん、ありがとう、じぁ行こうか玉突きに」ストレスを溜めない男とはこんな人を言うのだろうか。イトウのあとから二階のスタジオを出て一階に降りる。彼はギターは持って下りなかった。階段の途中では彼のフアンらしき人たちが、「おめでとう、おめでとう」の声がとんでくる。彼はやっと笑顔になり応えるが、この辺が普通の人ではないように思えた。下りたところにピカピカの黒塗りのセドリックが停まっていた。古賀先生が乗って帰る車だろう。運転手は新聞を読んでいる。イトウが近づくと運転手はあわてたように降りてきて後部のドアを開けた。イトウは私に、先に乗れ、という。なに!この男の車?しかも運転手付で、、、。いったいこの男は何者だ、少し怖くなってきた。このまま北朝鮮に連れていかれるのではないか…。車中言葉は出なかった。車は四ツ谷2丁目にある『赤白エイト』という店に着いた。入るとビリヤードの台は十台ほどあって、かなり広い。イトウのなじみの店らしい。客は顎だけでイトウに挨拶をする。初めてのビリヤード。イトウから5分ほど手ほどきを受けた。それほどむづかしいものではなかった。2時間ほど赤白の玉を突いた。ほぼ互角に突けるようになってきた。イトウはビリヤードのほうは得意ではないらしい。イトウは、疲れたからゲームは終わりだという。店を出た。また、さっきの車が待っていた。車の中でイトウはわたしのビリヤードの腕を褒めてくれた。運転手は黙ったまま車を走らせる。車は赤坂の料亭街に入っている。東京のど真ん中にもこんな静かなところがあったんだ。車は「吟芳亭」という店の横から敷石を踏んで入っていく。四阿の横に車は停まった。
「ここはママがやってるんだよ、遠慮はいらないから…降りて」車から降りると、渡り廊下から仲居さんがイトウに声をかけてきた。「どうでしたの?」今日のオーディションの結果のことらしかった。イトウはそれには笑って答えて、何か飲み物を運んでくれという。部屋に入るなり、すぐにビールが運ばれてきた。運んできた仲居さんが、いい音を立てながら栓を抜く。イトウは私にもビールを勧める。「いや、僕はまだ中学生なんです」「こう暑いときは体のためにいいんだよ飲んでみな」 といいながら自分のグラスを一気に空ける。私も朝から緊張のしっぱなしで喉が渇いていた。じぁ少しいただきます、ということで仲居さんから注いでもらった。仲居さんの香水が漂って来て、顔が赤らんでいるのが自分でもわかる。初めて飲むビール、喉が少し痛かったが美味しかった。少し気持ちが落ち着いてきた。
「君の演奏は上手かったよ、他にどんな曲をやるの?」
 イトウがきいてきた。上手いはお世辞だということは明らかだが。
「古賀先生の曲で、特に美空ひばりさんのものが好きで練習をしています」
「へぇひばりちゃんのが得意ねぇ」
「いえ、得意というほどのもんではなく、ひばりさんのが、好きだから弾いています」 
 そこにイトウの母が入ってきた。中学生の私に丁寧な挨拶をしてくれた。
「サダユキにお供いただきまして、、」
「あぁママ、こちらさんね、ひばりちゃんの歌が好きで得意なんだよ」
 また勝手に得意だなんて言う。
「へぇまだ中学生ぐらいなんでしょう?」
「はい、ニ年生です」
「そう」幼い子を見るような目でみる。
「あぁそう言えば、ひばりちゃんしばらく見えてないわね、確か今日が横浜公演打ち上げの日よね」
 イトウの母はひばり横浜公演の初日を見てきたと言ってた。
「それじゃこの方にも是非会わせてあげたいものよね」

 7 美空ひばり
 えっひばりさんと交友?
「電話をして見ようかしら、丁度あがったころじゃないかしら」
 母は部屋の隅の電話のところに行き受話器をとった。
「あのう、ひばりさんてあの美空ひばりさんですか?」
 イトウはすでにビールを一本空けていた。
「うん、君もひばりちゃんに会ってみたいんだろう、後一時間もすれば来てくれるよ」
 ビールの酔いがいっぺんに醒めた。
 冗談にもほどがある、ひばりさんが来る?ここに?もし来たらどうすればいいの?何をしゃべったらいいの?会話の術を持たない私は、座っているという感覚がなかった。一体どうすればいいんだ、どうしたらいいんだ。不思議なもので、この場から逃げ出したい気持ちになってきた。時は、刻一刻と進む。あと二十分…、あと十分くらいかな。無意識にビールを自分で注いでいた。だが酔いが表れない。
 部屋の隅の電話が鳴った。母が出た、ひばりさんからだという。
「…あらそれはたいへんねぇ。んん、こちらのほうは、、、、いいのよそれは、じゃ今度ということで、」
 母の説明では、ひばりさんはお仕事の都合でどうしても断れないことがあって、今日は来られなくなった、その方には本当に申し訳ないと思っていると、その旨を伝えてください、とのことだった。
 会ってみたいが、今は心の準備ができてない。ひばりさんに近いうちに会えるような気になり、今はとりあえずほっとした。
 翌日の新聞の三面に。ひばりさんの弟のことが載っていた。弟の透が、横浜でやくざ紛いのチンピラと殺傷事件を起こした。被害者はひばりさんの弟だったので、拘留されたのは相手だったが、弟の身元の引受人はひばりさんだったのだ。

 8 手紙・新宿コマ(ばりさんからの手紙・新宿コマ劇場)
 それから一週間ほど経ったある日、学校から帰ると私宛の手紙があった。何と差出人は[加藤和枝]となっている。信じられなかった。ひばりオリジナルの薄い桔梗模様の封筒。封を切るのが勿体ないくらい。いったいどんなことが書いてあるだろう。封にハサミを入れる手がかすかに震えてる。

 手紙・わたくしの曲を演奏してくださってるギターリストさんへ、という書き出しで、先日はたいへん失礼をしてしまいました。場合が場合だったので都合を曲げてしまいました。もうご存知のことと思いますが、(省略)あのようなことをしてしまう弟でも、わたしには大事な家族の一員です。(中省略)これからもひばりを応援をしてくださいね。お詫びのおしるしに『ひばり歌祭り狸御殿』のご招待券を同封させていただきます、ぜひ観にお出でくださいね。

 ひばりさんは、わたしよりずっと年上だがフアンはとても大事にするという、とても丁寧な内容の手紙だった。封筒には特別招待券が入っていた。新宿コマ劇場の「ひばり歌祭り狸御殿」5月29日。特別席は、D十二番席からD二十一番席となっていて、特別招待者が座るところになっている。ひばりさんから気を遣っていただいたことに感激した。
 学校から帰ると毎日のように、同じものだが、ひばりさんの手紙を読んでいた。
 5月29日、日曜日、紺のブレザーに白ズボン、少し派手な格好で新宿コマ劇場に行った。切符嬢は特別席、D十六番に案内をしてくれた。開演を待つ間客の視線が気になった、視線がチラチラわたしの方に向けられている感じがした。
 ブザーとともに曲が流れ緞帳が上った。『お祭りマンボ』の曲で、法被姿のヒョット数人が踊りながら出てくる。客は乗って手を叩き演奏に合わせる。ツゥコーラス目に舞台の中央から、侍姿のひばりさんが浮かび上がってきた。拍手は一段と大きくなり、「ひばりちゃ~ん、ようっひばり~」の声があちらこちらから飛んで出る。続いては、♪関東春雨傘、四分間のフルコーラスの演奏がとまり、舞台と会場は静粛に変わる。ひばりさんの挨拶。
「本日はひばりのためにお足をお運びいただきましてありがとうございます、こんなにたくさんおいでいただき、ひばりとても、とても嬉しゅうございます、、。ありがとうございます。ありがと、ありがと」何度か頭を下げる。「また本日は偶然でございましょうか、わたしの、、、生まれたぁ…日でございまして、あぁそろそろ、み・そ・じ・」大きな拍手がおこった。そうなのか、五月二十九日、今日がひばりさんの誕生日か。「もうこんな歳になってしまったんだな~と、、一人になったときに、ちと思うわよ」また笑いと拍手がおこる。
「でも…、今日は…、皆様に、、お知らせすることがあります」少し静になった。「わたしの、ボーイフレンドをご紹介しま~す」 会場はひばりのジョークにどよめきがおこる。ひばりさんは、
「あそこの席をご覧ください」といって、ひばりさんはわたしの席を指差した。同時に数個のスポットライトがわたしの席に集まった。笑い声と拍手。わたしには今何が起こっているのか分からなかった。一応立って周りにお辞儀をした。また笑いが大きくなった。ひばりさんは前の年配の女性客に、「実はあたしは、まだ会ったことないんだけどねっ、どう?可愛いでしょう?あなたもほしくな~い?」会場はドッと笑いが起こった。
一時間半のショーが終わった。楽しいひと時だった。
 ショーがおわりひばりさんにお礼を言おうと、楽屋へ向かったが、ガードマンに止められて入ることはできなかった

 9 帰らぬ日々
 それから四年が経ち、わたしも社会人となり、横浜市鶴見区東寺尾のアパートで一人生活を始めました。大家さんの奥さんもたいへんなひばりフアンでした。わたしに「ギターを聴かせて頂戴」といって、ときどき部屋に入ってきました。ひばりの歌は弾きかたりはむずかしいのである。どんな曲でもひばりが歌うから歌が活(い)きて聴けるのであって、他の歌手が歌っても歌が活きない、それだけに聴かせるギターも難しいのである。
 ある日、大家の旦那さんが、三十五歳の若さで癌を拗らし他界しました。落ち込んでいる奥さんに少しでも元気付けてやろうと思い、ひばりの曲を練習し、聴かせてあげました。とても喜んでくれました。会社が休みの日には一緒に食事をしたり、買い物も付き合ったりしました。いつかみた映画『帰らぬ日々』の映画女優に似ている奥さんに付き合っている私は、楽しい毎日でした。
 ある日、会社から転勤を命ぜられました。勤務地は八王子なので通勤は無理、引越しをしなくてはならない。そのとき奥さんは、荷物をまとめるのを手伝いたいと言ってくれました。
 そしてそのとき、
「…あのお手紙いただけないかしら」ひばりさんのあの手紙のことだった。今だったら何でも聞いてあげようと思った。⋯⋯大事にするからと、遠慮がちにいう。奥さんにだったら、わたしも貰ってほしかった。
 それから一年が経過したころ、これが虫の知らせというものであろうか。朝起きた時から無意識に鶴見へ行く準備を始めていた。駅では鶴見駅のボタンを押していた、だろう。そのときの記憶は全くない。他人からは夢遊病者のように見えたのかも知れなかった。
 気が付いたら鶴見の寺尾のあのアパートの前に立っていた。何のためらいもなくチャイムを鳴らした。出てきたのは奥さんではなかった。以前こちらにお世話になっていたことを告げると、
「あなた様でしたか、妹から聞いておりました。どうぞお入りください」
 奥さんに会える…動揺が起こる。
 部屋は以前と違う感じした。お線香の匂いがする。ご仏壇のある部屋はこの奥にあったが…。
「えっ…奥さんは?」
「二十九日でした、昨日が忌明けでしたの」
 自然と足が線香の匂いのする方にむいた。
「……」
 飾られた遺影写真は逝く直前に撮ったものらしい。涙で位牌がかすんでみえた。手を合わせると、あの頃のことが思い浮かぶ。ひばりの曲を弾いているとき、うっとりした表情できいていた。大船のドリームランド、富士急ハイランドでスケートを教えたときのこと。夢見ケ崎公園での散歩…楽しかったあの日のことが走馬灯のように流れては消えた。
「妹は主人を亡くしてから、どこにも頼るところもなく、わたしたちも心配していましたが、あなた様が居て助けていただいているということを聞いていましたので安心でした」
「そんな…で?」
「肺癌でしたの、わたしたちには何も知らせてくれませんでした、心配かけたくなかったんでしょう、妹はそんなやつでした」姉さんは細い指で目尻を拭った。
「あっ、」
 あまりの偶然さにしばらくは言葉が出なかった。奥さんはひばりさんと誕生日が同じだったのを思い出した。こんなことってあるものか、命日までもが…。神が特製した悪戯なのか…。だがそこまでは、お姉さんに言う勇気は出なかった。
 目眩いを感じた。
「妹は病室のベットであなた様からいただいた、ひばりさんのお手紙を両手に抱いて、笑って…息をひきとりましたのよ」

        『美空ひばりとアントニオ』おわり
     
    最後までお読みいただきましてありがとうございます。       

          

美空ひばり物語 (アントニオ省三と美空ひばり)