私が、山の学校で勤めることになったときのことです。

  たいていの農家の庭先にシャクナゲやモミジやツツジが植えてありました。私がまだ名前を知らない樹が形良く造られて、おりおりの季節に美しく庭を飾っていました。

 そのうち、私も、珍しい、私にとって珍しい樹の苗を集め、楽しむようになりました。ひときわ葉の艶の美しいシャクナゲは見つかりません。近くの山を散歩しながら探しましたが、モミジ、カエデ、ヤマツツジなどはいくらでもあるのですが、シャクナゲはありませんでした。

 「シャクナゲはこのあたりの山にはないよ。今度、連れていってあげる。」
と言うことになりました。車に乗せられて2時間か3時間走った頃、
 「ここはシャクナゲの海だ。」
というところにつきました。今でもどこだったのかよく分からないのですが、南八甲田の南端ぐらいではないかと思っています。 

 ところが、このときパトロ−ルで山を見回っている人に出会ったのです。営林署の身分証明書を見せて、
 「お前たちは何をしているのか」
と咎められました。私を連れて行ってくれた村の人は、
 「ここは私に任せて、あんたは車の中にいて、ものを言うな。」
と私の口を封じて応対をはじめました。

手帳を出して名前を書き始め、
 「車の中にいるのはだれだ。」
 「弟で少し頭が病気で口がきけないんだ。時々、景色の良い所を連れて歩いて保養させなければならないんだ。」
 私は驚きましたが出る幕がなくなってしかたなく無関心を装って待っていました。

 「シャクナゲを掘るなんて、杉の丸太を盗るより悪いことだ。」
 「はあ、そんな大事なものなんで・・・」
 「元通りにして早く山から出なさい。」
と一件落着しました。

 しばらくやりとりしているうちに、私たちがプロの盗掘屋でないと認めてくれたようで、最後は笑顔で逃がしてくれました。
 「これから、学校と役場と警察の人は山を案内しない。」
と彼は汗を拭っていました。
 「百姓はこんなことぐらいで捕まっても何でもないが、あんたたちは首が飛ぶと思って心配したんだ。」
 安宅の関で義経をかばった弁慶のようでした。

 1970年、そろそろ、日本も豊かになり、家を建てて庭に樹を植える人が多くなってきた頃です。手当たり次第に山から樹が持ち出されるようになりました。40年昔のことで、価値観も今とは違っていました。山取りといって盆栽用の樹を掘ったり、高山植物を集めたりすることが、山菜採りやキノコ狩りのように日常的にレクリエ−ションとして行われていました。

 今なら環境破壊として厳しく糾弾されることです。この怖い思いをしたことで私はシャクナゲという名前は忘れられなくなったのです。
 
             






 佐藤さんはキノコについて詳しい友人です。キノコ採りの名人と言って良いでしょう。彼に、シャクナゲを見たことないかと問いかけて、「松見の滝」の近くに行くことになりました。奥入瀬渓流の途中の沢を右に入って、4時間ほど沢登りをします。道なりに進むと滝に出るそうですが、二人は、左に流れを見ながら、道のない斜面を進みました。さすがに、いろいろなキノコがあって、私は見たこともないキノコの写真を撮りながらキノコ事典でも作れそうだと思いました。

 何かにつかまらなければずり落ちてしまうような急な斜面を100mほど登りきったら、そこは尾根の途中で、その尾根は船の舳先のようにV字型に谷底に落ち込んでいました。三方が切り立った崖です。刃物の上を歩くような細い地形の上ではっとしました。足を踏み外したらおしまいという狭い地形の上にシャクナゲが這っているのです。

 下を覗き込んでもシャクナゲはありません。あるのは1mか2mの刃の上だけです。両側の谷から吹き上げてくる強い風、下へ下へと押し下げられる雪の重さ、雨の度に表土が流され、研ぎすまされた黄色い火山灰の上のわずかの苔、その苔とともに生えているのです。

 植物にとって、これ以上悪い環境があるでしょうか。近くに生えてなくてここだけにあるのも不思議、なぜ広がらないのか、最初の種はどこから来たのか、あまり考え込んでいると飛ばされてしまいそうな場所です。シャクナゲのやせた実を逆さに振って種を集め、谷に下りました。

 収穫したキノコをリュックサックの周辺に詰め、中心にカメラをおいて、自分がひっくり返ってもカメラが傷まないようにしておきました。そろそろ太陽が傾いて、深い谷は薄暗くなってきた頃、立ったまま枯れている木に、真っ赤に見えるほどナメコが生えていました。入れ物いっぱいで、もう収穫しなくてもいいのですが、写真だけは撮っておこうとリュックサックをおろしました。

 リュックサックの中をいくらかき回してもキノコだけでカメラが入ってないのです。ニコンと交換レンズ2本、皮の袋ごとないのです。どこかで、カメラを出したままキノコだけ入れてきてしまったのです。
 
 佐藤さんはその次の週も探しに行ってくれましたが、見つかりませんでした。ブナの林ではこれが目印の木と思っても、同じ目印ばかり並んでいて元のところへなど戻れないことがわかりました。水の音で方向をつかむだけなのです。

 大事なニコンカメラは何本も撮ったフィルムとともに、化石になることでしょう。シャクナゲの種は高くつきました。絶壁の上にしかなかったシャクナゲについての思いはつのるばかりです。

          






 テレビに出演した有名会社の経営者が言ったことばですが、この言葉にひっかかりました。頭から離れずにこのことを考えることになったのです。
 
 ナンバ−ワンは論外としても、オンリ−ワンと言えるものが私にあるのかと省みると思い当たるものがありません。

 家庭菜園の話を聞いて、まねをしてみてもス−パ−の安い野菜の足下にも及びません。菊をやってみても咲いたというだけで、名人たちの展示会を見に行くとがっかりしてしまいます。カタログをみて注文する花は美しいけれど誰でもやっていることです。サツキがきれいだと種類を集めますが、咲いただけで誉めてくれる世界ではありません。

 園芸そのものは好きであれやこれやと手をつけるのですがものになったものはありませんでした。

 そこで、気がついたのがシャクナゲです。難行苦行で採集してきた種も、育たずに枯れてしまう。あの厳しい所に育つ植物が、楽なところでは育たない。見回すと実生をやっているという人はあまりありません。これを育てることができたらオンリ−ワンだと思ったのです。

 日本ツツジ・シャクナゲ協会という会に加入しました。この会の発行している本を見たら、先輩や専門家がいくらでもいて、決してオンリ−ワンでないことがわかりました。先端技術のかたまりみたいなことをしている人が年に2回論文集を出しています。参考になることは沢山ありますが、私のやり方はまねではありません。我流です。シャクナゲは我流でこつこつ付き合うのに適した相手だと思います。

 オンリ−ワンを目指します。
 






 
 若かかりしころの仕事の上の師匠が年賀状に書いてくれました。「明日、地球が滅びるようなことがあっても、私はりんごの苗を植え続ける」と言うような意味の言葉でした。聖書の中の言葉だと後から手紙を頂きましたが間もなくその師匠は亡くなりました。

 シャクナゲが発芽して、2ヶ月ほどたつと移植を始めます。老眼鏡を二つ重ねてかけて、ピンセットで一本ずつ苗を分けます。風や日の当たるところではできないので家の中を散らかすことになります。

  最近は、登山好きの友人が、各地の山の種を土産に持ってきてくれます。安達太良山、那須山、比叡山などと播き分けて置いた苗を200本か300本ずつ独り立ちさせるのです。この細かい作業をしながら、これらの花が見られるのは何年先かなと思うときがあります。5年後には何本生き残っているかなとも考えます。大部分の花を私は見ることができないかも知れません。

 人間の子どもが、6才、7才と学校に入る年頃には丈夫になるように、シャクナゲも6年、7年とたつと丈夫になって、土植えしても育つようになります。そうなれば、誰に上げても育ててくれるでしょう。

 夢こそ生きがいなのです。





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