鍛冶丁(または鍛冶町)は、八戸市中央部に位置しており、長者山新羅神社と繁華街である十六日町に近接する地域であります。現在の町内会は大正11年に発足し、当時八戸市内は勿論、青森県内そして東京でもまだ町内会は無かったと言いますから日本でも最古の町内会だったと言えるでしょう。

鍛冶丁の「丁」の字は侍の町を意味しており、元来、当町も「鍛冶丁」と表記するものだと言われております。
天保の頃、八戸藩の刀鍛冶に小笠原吉廣という鍛冶師が仕えておりました。当時八戸藩内で刀匠は数々おりましたが名のある者は二、三人位であったと言われています。彼ら刀工の生活は毎日刀を鍛えるのではなく、その殆どが農具の鋤、鍬または鉈や鎌などをうつのが仕事でした。

刀を鍛える時は、殿様か、あるいは藩士から注文された時、また戦が始まる時などに限られていたと言うことであり注文も毎日あった訳ではありませんでした。当地域は久慈街道に位置しており、八戸藩領内の良質な砂鉄を用いて刀工として生活していたこの鍛冶師たちを一ヵ所に集めて住まわせ、町名を「鍛冶町」と称したのが鍛冶町の町名の起こりであります。

元禄2年(1689) 12月には大工町、鍛冶町が御町奉行支配下に仰せつかり、城下町になった訳であります。
町内には刀工、鍛冶師の他にもその弟子達の住む長屋などが建ち並び、幕末の頃には町並み30軒を数えたと言われております。