当時、鍛冶師たちが刃物を鍛えるために用いだのが「松炭」でありました。「松炭」は火力があまり強くなく刃物を鍛えるには最適の燃料であったようです。しかし、「松炭」の火の不始末から鍛冶町では何度も大きな火災が発生しました。

掛け軸
そのため当時の人々から鍛冶町ではなく『火事町』だと言われたものでした。
このように火災が多発した町内でしたので町民の手による自衛消防隊が組織運営されたのも当然の成り行きであったわけです。自衛消防隊が出来た後、文久元年 (1861)鍛冶町の消防組は『は組』と称し、当時としては画期的な「龍吐水」をお上から拝領し「担い桶」「差又」「水籠」「梯子」などを装備しておりました。後に『智組』『四番組』『2部2号』『2分団2班』と引き継がれています。

鳶口
幕末の頃、江戸の火消しの纏持ちであった大友長兵衛(後に鍛冶町消防の世話役)は故合って八戸に流れ鍛冶町の東側に住む事になりました。あだ名を『ガン桶の長兵衛』江戸火消しの腕を見込まれ鍛冶町消防の纏振りとして迎えられました。

長兵衛の振る纏はそれは見事で当時の若者達に華麗な纏振りを伝授したのでありました。組の若者達は競って長兵衛の纏振りを習いました。やがて長兵衛から伝授された鍛冶町の纏振りは『奴振り』と称され大変有名になり他の組にも教え広められたと言うことです。
鍛冶町の纏は『籠纏(籠目纏)』と称します。纏の頭に大きな丸い籠があり、その上に芥子(ケシ・消しの語呂合わせ)の実を形どった玉を載せ、馬簾は細身の二重馬簾で周りにぐるりと下がっています。丸い籠は団員の固い絆、団結、和を意味していると言われております。この纏は、京都から導入したものと伝えられており、重さもかなり重く実際に握るには熟練を要し、一般的に振られている纏よりはむしろシンボル的な意味合いが強いようです。