当町の祭り参加は新羅神社の「別当サン」から氏子である当町への割当てで、大祭行列の鉄砲隊の人足を依頼されたのが始まりだと言われております。しかし、その鉄砲隊の古びた衣装を着るのを若者が嫌がり、代わりに山車を出したのが起源とされています。
このエピソードは当時の他町内の山車組にも影響を及ぼした事件だったようです。

岩岡三夫氏の記録によりますと、次のように登場しております。
綱で引く山車が参加したのは、明治26年が始まりで鍛冶町の「仁木弾正のネズミ退治」が出た。それまで行列に人夫として出ていた鍛冶町の若者達が、世の中が開けるに従い古びた具足を付けることを嫌い、揃いの浴衣に豆絞りのはちまき姿で笛、太鼓の拍子つきの山車を引いたが、この粋な姿が人気を呼び、各町内で競ってまねるようになった。

この時期の山車は、近藤初代八戸市長の父君でヨロイ師をしていた近藤虎太朗氏が作った。八戸の町民による祭りの山車製作技術はこの人に始まる。
 (同署『八戸ふるさと物語』ホテルサンルート六頁1993年3月)
当時の山車の特徴は「岩」と「波」にあり、「高さ」を競い合ったものです。このような山車は京都の祇園祭の山鉾に始まりました。かつては祇園祭のように御所車の馬車を利用した大きな四輪の車でありました。

 

現在の祭りは各町内単位で行われておりますが、かつては消防組が大きく関わっておりました。
山車が今のように町内で作られるようになる以前、それは経済的にも裕福であった八戸町の有力商人達によって出されておりました。
しかし、祭りの山車を毎年出すことはそれなりに多くの経費もかかりました。

明治二十二年大澤多門が八戸の祭りを奨励し人々に働きかけた折り、消防組の若い衆達が馬車に屋台を載せ、意匠を凝らした人形を飾り町中を練り歩きました。
その後、人々が消防屯所に集まって人形や小物衣装などを作ったりお囃子や木遣りの練習が行われるようになり、山車作りの中心となっていったわけです。