八戸ゴルフ倶楽部沿革の年表

日本年号
(西暦)
 八戸ゴルフ倶楽部の出来事  八戸の主な出来事
 昭和32.12

(1957年)
更上閣室内ゴルフ練習場(4打席)を新設、八戸ゴルフ倶楽部(HGC)が誕生(入会金2千円、年会費5百円、会則等決定)会員数63名
渡辺正明氏が初代会長に就任 

日曹製鋼(現太平洋金属)八戸工場が操業開始 

 昭和33.10
(1958年)
八戸遊園地内に特設インドアゴルフ練習場を開場
角ヶ浜でアウトドア練習を開始
八戸火力発電所で火入れ式
 昭和34.10
(1959年)
角ヶ浜で第1回ゴルフコンペ(23人参加) 八戸市営第二魚市場完成
 昭和35.10
(1960年)
馬淵川の河川敷に6ホールのコースオープン(事務所は八戸ガス鰍ノ置く)
滝崎清男氏が二代目会長に就任
チリ地震津波、三陸沿岸に大被害
NHK八戸放送局開局
 昭和36.3
     9
(1961年)
3ホール増設し9ホールにする。クラブハウス建設を計画
八戸遊園地内の特設インドア練習場で陳清波プロが指導
八戸港10,000トン岸壁完成。八戸市白銀で大火、住宅など1,000棟以上焼失
 昭和37
(1962年)
中村武晴氏が三代目会長に就任
クラブハウス建設着工
青森労災病院が開院
昭和38
1963年)
クラブハウス完成(事務所は八戸市河原木字川目20に置く) 八戸工業高等専門学校が開校 
 昭和39. 3
    7
    8
(1964年)
専任職員を置く(中田九兵衛氏が初代支配人)
佐々木隆蔵氏が四代目会長に就任
1回新人養成講習会

八戸新産業都市スタート
十和田国際カントリークラブ開場

 
 昭和42.5
           8
             11
1967年)
小幡正一氏が五代目会長に就任
10周年記念ゴルフコンペ
建設省よりクラブハウス移転の件で警告を受ける(河川法改正により堤防上の建物が対象)
 三菱製紙八戸工場落成
 昭和43.4
          5
(1968年)
 クラブハウス移転特別委員会発足
十勝沖地震による津波被害でコース冠水、被害じん大
6、8、9月と3度の増水により冠水
十勝沖地震、県内で死者不明48人 
昭和44
(1969年)
  4月に二度、7、11月と四度の増水によりコース冠水  長根パイピングリンクがオープン

昭和47
(1972年)

 8月増水により冠水  八戸工業大学開学

昭和48.6                7
(1973年)

新会員29名募集(入会金10万円)
クラブハウス建設委員会発足
 八戸大橋が起工

昭和49.6
1974年)

クラブハウス落成。全会員に一口1万円の協力金要請(事務所は八戸市河原木字川目19-7に置く)入会金20万円に変更 八戸カントリークラブ開場 

昭和50.8
1975年)

コース川下に9ホール増設し18ホールにする

八戸市公会堂開館 
 昭和51
1976年)
 福井善次郎氏が六代目会長に就任 八戸大橋開通 
 昭和52.8
(1977年)
 20周年記念納涼大会
モーニングサービス開始
八太郎大橋が開通
八戸中央卸売市場完成
 昭和54.7
(1979年)
第1回ビジター大会
8月増水により冠水
 「えんぶり」国の重要無形民族文化財に
 昭和55
(1980年)
 12月高潮によりコース冠水  馬淵大橋開通
 昭和56
(1981年)
8月台風によりコース冠水  八戸大学開学
 昭和57
(1982年)
4、5、9月増水によりコース冠水
 昭和58.4(1983年) 大曲市建設部長らコース建設のため視察(雄物川に河川敷コース造成のため)  「八戸ナンバー」誕生
 昭和59.3(1984年) 田畑一氏が七代目会長に就任 新井田インドアリンクオープン
 昭和61.3(1986年) 類家浅五郎氏が八代目会長に就任
8月増水によりコース冠水
 八戸テレビ、本放送開始
 昭和62.3      8
(1987年)
イブニングサービス開始
30周年記念納涼大会
8月増水によりコース冠水
 八戸市立東体育館開館
 昭和63
(1988
年)
8月増水によりコース冠水  
 平成元
(1989年)
 河川整備基金1回当たり150円寄付決定(河川整備基金150円・緑化協力金50円、計200円増額)  東北自動車道八戸線が全通
 平成2.3
(1990年)
田中喜一氏が九代目会長に就任
9、10月増水によりコース冠水
 
 平成3.4
(1991年)
クラブハウス建設委員会発足
10月増水によりコース冠水
八戸ハイテクパーク完工 
 平成4.2


          3

          9
         12
(1992年)
新会社設立発起人会発足
新会社名称、八戸ゴルフ開発鰍ノ決定、資本金1千万円(出資金一口5万円×200口)
入会金70万円に変更(50名募集)
新クラブハウス工事着工
新クラブハウス完成・営業開始
緑化基金寄付に対し八戸市長より感謝状
風張遺跡で日本最古のコメ出土
 平成5.7
(1993年)
河川整備基金寄付に対し建設大臣より感謝状
7月台風によりコース冠水
 櫛引八幡宮、国の重文に指定
 平成6.3
(1994年)
石岡穂積氏が十代目会長に就任  三陸はるか沖地震発生
 平成9.8
(1997年)
都市緑化基金50万円を八戸市に寄付。八戸市長より感謝状
40周年記念納涼大会
 みちのく国際ゴルフ倶楽部開場
 平成11
(1999年)
10月集中豪雨によりコース冠水
第1回レディース大会
 八戸市制施行70周年記念式典
 平成12.3
(2000年)
関本三郎氏が第十一代目会長に就任  
 平成14
(2002年)
7月台風によりコース冠水  新幹線八戸駅開業。「はやて」デビュー
 平成16.4
(2004年)
国道橋建設のため12ホールにコース縮小(東6ホール、西6ホール)
9月台風によりコース冠水
 八戸三社大祭の山車運行、国の重要無形民族文化財に
 平成17.4
(2005年)
初心者向けゴルフ研修会開始
新会員30名募集(入会金90万円)
南郷村編入し新「八戸市」誕生
 平成18.9
(2006年)
創立50周年記念事業実行委員会発足
10月増水によりコース冠水
東6ホール、西3ホールにする
 
 平成19.8
(2007年)
創立50周年記念大会祝賀会(記念誌発行)  
 平成21.4
(2009年)
 No.7、No.9コースを改造し、ショートホール2、ロングホール2にする  
 平成22.3
(2010年)
 橋本昭一氏が第十二代会長に就任  
 平成23 3月東日本大地震に伴う巨大津波によりコース冠水、被害甚大  


草創期にまつわるエピソード

 その1 「デーリー東北」記事(昭和32年12月26日)より

八戸ゴルフクラブ(HGC)の発会式が昨日25日午後2時から新設された更上閣室内ゴルフ練習場で行われ、会則と役員を決めたあと会長に選ばれた渡辺日曹製鋼八戸工場長が、処女球を的に命中させ練習場開きを行った。
 同クラブの会員は市内の主に経済人や工場関係者63人。入会金2,000円、会費500円で会員の紹介があれば入会することが出来、春までには一般によびかけ会員を倍にする予定。会長渡辺正明(日曹)副会長滝崎清男(ハ戸がス)同、川村彌永吉(弁護士)。
 更上閣わきに新設された練習場(建設費30万円木造平屋)は26坪、練習台4基で更衣室があり、観光協会で管理することになっている。尚、同クラブは来春には市内の適当な場所にゴルフ場をつくる計画を立てているほか、三沢の米車のコースを週一回借りることを交渉することになっている。(右写真は、更上わきに新設された練習場で試し打ちをするゴルファー)


 その2 タウン誌「うみねこ」(昭和53年5月号)「八戸ゴルフ倶楽部誕生のころ」より抜粋

・八戸ゴルフ倶楽部の沿革   滝崎清男

何とかインドアからでて、フリーでゴルフやれないものかというので、角ヶ浜にコンブを干すところがあり、9ホールできそうだというので、そこの漁業組合長と話し合いをして5月のコンブ干し期間だけを除いて、年間5,000円で借りました。それで33年、34年と続いた。やってるうちに漁業組合員の中から「庇を貸して母屋をとられるんじゃないか、八戸の偉い人ばかり行くもんだから」との声が出てきたこともあって、こちらから辞退、35年になって河原の方に作ろうということになった。河原は石堂と日計の部落で放牧をやっていた。堤防を作る時に県が放牧を許 したらしい。我々が借りようとした頃は、沢山放牧の牛がいて夕方になると子供が尻をたたいて連れて帰る。なかなかウンという返事をもらえなかったが、とにかく橋の上の方を貸してほしいといったのです。最後には放牧代替地に牧草の肥料用として年間、肥料100俵あげるということで落ち着いた。この肥料はゴルフ予定地以外、下流や対岸のところでまいて下さいということで。
   日東化学硫安オンリーの時代で、1、2年目になったら牛もこなくなったし、時代の変遷で牧畜の方もやられなくなった。それから市長の所へ行って河原を貸してほしいと陳情したらよかろうということになって、県の方へ陳情書を出してようやく借りたのが36年3月。最初は3ホールでPAR5・3・3でした。それから間もなく6ホールのコースにしました。 (写真右上は、角ヶ浜のコンブ干し場をしてできた3ホールのコース。写真左は、角ヶ浜で行われた第1回コンペ)


・座談会から

32年に、更上閣の今の図書館の所に二、三間のちゃちなインドア作ったんですが、物足りなくなって角ケ浜の青空のもとで練習をしてるうちに、図書館が建つので壊され、幸い熊谷義雄さんに遊園地のわきに今度は本格的なインドアを作ってもらった。角ケ浜の方はおっぱられて馬淵川の河原に来たわけ。同時に三沢の駐留軍が作った本格的なコースにもお願いして入るようになった。それでもあき足らず六戸ができたという順序でいくわけです。
  河原のゴルフ場を開いた時にひとりの功労者がいます。後で軍指令になった、当時基地隊指令をやっていた方が飛行場の草刈機で草をかってくれた。演習ということで。
  何しろヨシズがひどかった。河原で打ったボールをよく牛にぶつけた。ヤギもいた、ヤギにぶつけると追いかけてきたものです。(写真右は、馬淵川原 に飛行機着陸、河原のヨシズ)


・当時の役員紹介  佐々木隆蔵

遊園地の練習場が撤去される直前に、プロゴルファー陳静波をコーチに招いたことがありました。36年9月9日のデーリー東北に載っております。又、六戸の十和田国際カントリークラブの設立は38年8月7日です。いろいろいきさつがあって、はじめ岡工務店が六戸の牧野組合と接渉しその後、村松建設に移って実際にできたのは村松建設の施工で、コース設計は陳清水だった。
  役員は会長村松昌平、理事長滝沢清男、副理事長が私の顔ぶれでした。株式発行は47年2月、500万の出資です。開場始球式に八戸市長代理で林君がやったが、クラブがボールに当らずドッと来ました。招待プレーヤーは中村寅男、石井友雄、陣清波など華やかなものでした。六戸が出来て滝沢さんは八戸の会長を中村武晴(高周波工場長)さんに申し送り、中村さんも2年位で八戸を去ったので、39年から私が会長をつとめたが私も2年で、後を小幡君に会長をつとめてもらいました。リバーサイドコースが6ホールで不満があり9ホールを計画したのは36年だった。石堂の池のところに事務所を置いた頃です。役員は顧問熊谷義雄、牧浦好之助、川文作、会長滝崎清男、副会長於本重義、川村彌永吉等々です。
 リバーサイドコースが9ホールを完備したのは41年から10年間小幡さんが会長をやってからです。41年の会員数は134名、50年には222名と増加、繁栄しております。(写真右は、八戸遊園地内の特設インドア練習場で指導する陳静波プロ)