八戸の弓道 |
青森県八戸弓道協会は、昭和24年に種市良春初代会長のもとに八戸市十一日町願栄寺内、直心舘を弓道場として発足し、以後28年直心舘弓道場改築、52年に青森県八戸市で開かれた第32回あすなろ国体を機会に八戸市営弓道場を新築した。
明治時代以前の記録
旧南部藩の史書である「八戸藩史料」の記述を見ると、
○寛文5年(1665年)8月、殿中に於いて巻藁射初式を行い大浦庄之助が之を務む
○長者山下、鍛冶町裏に射的場を設け、藩士一般に弓術を練習せしめた
○享保2年(1768年)3月20日長者山下射的場に於いて、藩士の弓術試合があり、命中多き者に賞品を賜う。
○享保2年正月22日長者山に疫病の除厄祈祷のため、豊山寺の願により八幡社を建立し、八幡堂射的場を設ける。
○明和5年(1768年)12月16日、吉田流印西派を八戸に広めた弓道の達人、岡本源右衛門高茂
○文政9年(1826年)6月13日第八世信眞公七男三千松改め造酒助が江戸で吉田壹蔵へ入門す。
○文政12年(1829年)10月15日南部藩武道師範
吉田流印西派弓術 苫米地保
? 西館郡右衛門
日置流 中里弥祖右衛門
大進流、竹林派 室岡壹右衛門
○天保元年(1829年)3月15日居館新築落成の蟇目執行せられ、信眞公の子息、造酒助が之を務め、同用係、野村武一、金田一作兵衛なり。
○同年9月19日長者山新羅大明神の大祭あり、百間馬場において加賀見流流鏑馬を挙行せり。
○天保3年(1831年)武芸師範氏名
紀州竹林派弓術師範 逸見玄藩
他にも、南部一の宮である櫛引八幡宮での流鏑馬等の記述が見え、戦国時代の武器としての弓術は、旧南部藩の城下町である八戸で各流派が競い合っていたと思われる。
明治時代以後
仙台在住の梅原兄弟は東京歯科医師学校で弓術を習得し、兄は青森市で、弟の徳治氏(範士十段、昭和52年没)が、明治35年八戸に歯科医師を開業、弓道の普及に努めた、大正時代に、松原忠意、富雄親子(興一氏の父)が自宅内に弦道会を主催、他には、剣道、柔道、棒術、なぎなた、そして弓術を含めた八戸青年会、八戸体育連合会という組織があった。
市内の弓道場について
○弦道会弓道場(大正5年〜昭和20年)
間口4間の道場が鳥屋部町にあり、神永政吉範士十段、安沢平次郎範士十段、佐藤信敬教士七段等、各先生が来場し、審査会が開かれたりしたが、敗戦時に撤去させられた。
○秋田木材弓道場(大正10年〜?)
松永重児(初代肥後三郎)の自叙伝「弓に生きる」の中に、“明治43年頃、秋田県に秋田木材という商店があり、弓引きも多く、小笠原流門人の紹介で親子で出かけて、弓を作ったり、下駄を作ったりしていた”との記述があるが、八戸にも支店があり、小中野町北横町に道場が建てられ、梅原徳治範士が稽古していたのではないかと推察される。
○鉄道クラブ弓道場(昭和4年〜19年)
八戸駅の国鉄官舎内に間口3間の道場があり、主に国鉄に勤務する人々が稽古していて、朝岡藩範士九段(元岩手県弓道連盟会長)栃内四段、志田伝四郎等がいた。
○直心館弓道場(昭和14年〜54年)
願栄寺住職吉川彰英(教士七段)は、弦道会へ入会し、京都の龍谷大学卒業後、十一日町願栄寺内に、間口3間の直心館弓道場を新築した、昭和28年に東北北海道対抗戦が八戸で開催されたのことをきっかけにして、改築され、社会人の他に、八戸高校、八戸東高校、八戸商業高校の部員も集まり、昭和52年八戸市営弓道場が新築されるまで八戸の弓道の中心であった。
○常現寺弓道場(昭和18年〜?)小中野町字北横町
○日東化学弓道場(昭和29年〜?)八戸市沼舘 日東化学八戸工場内、
○合同酒精弓道場(昭和32年〜48年、)
合同酒精株式会社内に、弓道部が誕生し、合同アイスパレス付近に道場新築、昭和34年に焼失したが建て直される、昭和34年に弓道部ができた八戸北高校弓道場としても使用された。
○櫛引八幡宮弓道場(昭和41年〜)
八幡に明治100年を記念して新築、毎年八幡宮奉納弓道大会を開催、八戸工業高等専門学校弓道部が利用している。
○八戸市営弓道場(昭和52年〜)
第32回あすなろ国体を契機に、糠塚字下屋敷9-1に新築、
○八戸東高校(昭和40年〜)
○八戸高校(昭和41年〜)
○八戸北高校(昭和49年〜)
○八戸学院大学(昭和55年〜)
○八戸西高校(平成2年〜)
○八戸学院光星高校(平成8年〜)
○八戸商業高校(平成11年〜)
○八戸学院大学(平成29年〜)
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