サイクリングで仏沼湿原(ラムサール条約登録地)を見に行きました

平成20年9月21日(八戸の自宅8時発〜淋代海岸〜仏沼湿原〜谷地頭〜小川原湖〜寺山修司記念館〜航空科学館〜16時自宅着)

家内の言いぐさは「いまより若いときはないから‥‥」ということで、暇さえあれば何かやろうとする。今日はママチャリでどこかに行きたいと言うので、ラムサール条約登録地の仏沼湿原を見たいと前から言っていたのを思い出して、出かけることになった。途中で栗拾いをしながらのんびりと‥‥(*^_^*)

天気は曇天、まずは高館から海沿いに北に向かう。市川から百石町に入り国道338号に出て一川目、二川目、三川目と進む。三沢漁港に寄ってその港の変貌と大きさに驚いてしまった。ここは昭和46年から漁港が整備されたが、その前は太平洋の荒波と広大な砂浜が広がっているだけだった。現在は第三種漁港として魚市場も開かれ、イカ・鮭・ヒラメ・カレイが主要な漁獲物である。特に北寄貝は三沢の特産であり、最近は北寄丼を売り出している。八戸以北では唯一の海水浴場である「ビードルビーチ」もある。国道に戻り四川目、五川目と進むがここは三沢基地の滑走路直下のために騒音がひどく、住民は大津地区に集団移転してしまった。私は昔の浜三沢や四川目地区の賑わいを知っているだけに、何もない漠とした原野を眺めると寂しい思いになってくる。この広大な地を何とかうまく利用できないものか‥‥。淋代まで来て世界初・太平洋無着陸横断の出発地である淋代海岸に立ち寄った。国道を右に曲がり綺麗に整備された松林の中を進んでいくと太平洋の白波と長く続く砂浜が目に入った。

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淋代海岸

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ミス・ビードル号と案内

ここ淋代海岸は昭和6年(1931年)にアメリカのウェナッチまで7,847km41時間10分かけて、太平洋無着陸横断を達成したミス・ビードル号の離陸地。当時の住民が海岸に滑走路を作って協力したという。さらにここは「日本の白砂青松100選」の場でもあり松の防風林が延々と続いている。

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道は北へまっすぐ続く

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広大な仏沼湿原(ラムサール条約登録湿地)

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ここ仏沼は平成17年11月8日ラムサール条約に登録された。「仏沼は小川原湖と東側の太平洋の海岸砂丘にはさまれた干拓地である。以前、仏沼は小川原湖とつながるラグーンであったが、現在はヨシを優占種とする低層湿原であり、絶滅危惧(きぐ)種のオオセッカをはじめ、コジュリン、オオジュリンなど希少な鳥類の繁殖地及び、渡来地や水鳥など渡り鳥の中継地ともなっている。特にオオセッカは日本での生息数は20002500羽位と推定される貴重な鳥で、環境省のレッドデータブックで絶滅危惧種TB類に指定されている。現在仏沼にはそのうちの1000羽近くが生息しており、世界最大の繁殖地となっている。他に絶滅危惧種TB類のオオヨシゴイやサンカノゴイ、絶滅危惧種U類のコジュリン・チュウヒ・シマクイナなどの貴重な種が生息している。また昆虫では30数種のトンボが生息し、絶滅危惧種U類のオオキトンボや準絶滅危惧種のカラカネイトトンボなども見られる。チョウでは絶滅危惧T類のゴマシジミや絶滅危惧U類のヒメシロチョウが生息し、甲虫では同じく絶滅危惧U類のマークオサムシなどが生息している。植物を見るとヒンジモ(絶滅危惧TA)、ジョウロウスゲ・エゾナミキソウ(絶滅危惧TB)イヌハギ・オオニガナ・オオアカバナ・ミズアオイ・スズサイコ・キキョウ(絶滅危惧U類)ミクリ(準絶滅危惧種)など身近では見られなくなった植物が生息できる自然度の高い地域となっている。このように仏沼が持つ他に類を見ない豊かな生態系と、渡り鳥の重要な中継地となっていることが評価され平成1711月ラムサール条約指定湿地に登録された。将来に向けて、行政や自然保護団体・農業団体によって仏沼を生息の場とする生物の保全とラムサール条約の目標でもある環境教育や地域による賢明な利用が進められている。」(NPO法人おおせっからんどHPより)

ヨシ原とススキの穂ばかりの荒涼とした湿原が広がっている。一見するとなんにもない場所だが貴重な鳥類や昆虫の生育する場になっている。こんな身近なところに世界に誇れる湿原があることに大感激です。しかしもともとこの地は沼地であり、排水しなければすぐに水没するそうです。この仏沼干拓地を管理している北三沢土地改良区の人々の努力に感謝いたします。頑張ってください。

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斗南藩記念観光村

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六十九種草堂

次に斗南藩記念観光村に向かった。ここ谷地頭は会津藩士、広澤安任が明治5年に日本初の民間洋式牧場「開牧社」を開設した地です。外国人を指導者として雇い近代的な農耕具を導入しチーズなどの乳製品を生産しました。販売を目的とした乳製品の生産を行ったのは、開牧社が日本で初めてでした。こうして慣れない農耕牧畜に従事する旧斗南藩士たちを助け、力となっていたようです。以来牧場経営に生涯を捧げました。

いまこの斗南藩記念観光村は「道の駅」となっていて、開墾の様子や資料を展示した「先人記念館」や廣澤安任の住居兼書斎を復元した建物「六十九種草堂」があります。「六十九種草堂」は安任が牧草として研究した野草を博覧会に展示した記念として、親交のあった勝海舟から揮毫されたものです。この建物は広澤安任が元会津藩京都公用方勤で斗南藩権小参事を務めたときの安任の旧宅を再現したものです。公用方勤、すなわち京都の情報を収集する任務を果たしていたために顔が広く、新撰組の近藤勇の力になったり、福沢諭吉とも親交があったようです。大久保利通などは新政府への出仕を勧めにわざわざ斗南まで出向いてきたそうです。しかし安任は「野にあっても国家に尽くすことはできる」の信念を通したといいます。六十九種草堂ではこのときの会談の様子を再現しています。

それにしても斗南藩の苦労は大変なものだったようです。その中でも廣澤安任のような根性のある、すごい人がこの地で頑張っていたなんて驚きです。そういえば三沢出身の故・北村正哉県知事や故・鈴木重令三沢市長も会津の血筋の人でした‥‥これにはなるほどと納得できます。

「道の駅」に寄ってトウモロコシとトマトを買って小川原湖畔で食べました。

斗南藩とは:斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)113日会津藩主松平容保(かたもり)の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、翌年の明治3年(1870年)15日旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれ成立した藩である。 なお、「斗南」は、漢詩の「北斗以南皆帝州」から名づけられた。  会津藩を没収された会津松平家は、改めて元南部藩領の北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられた。小説等ではこれは強制的な移住だったと書かれることが多いが、実際には旧領の猪苗代か新天地の斗南かの選択権が与えられ、藩内で議論紛糾の末、自ら斗南を選択したのである。同年418日、南部に移住する者の第一陣三百名が八戸に上陸した。斗南藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、五戸に向かった。旧五戸代官所が斗南藩の最初の藩庁になった。のち、現在の青森県むつ市田名部にある円通寺に斗南藩庁を構えた。また北海道後志国の歌棄(うたすつ)・瀬棚・太櫓(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人に過ぎなかった。 ちなみに斗南藩は表高3万石となっているが、藩領は不毛の地であり、実高7千石に過ぎなかったと言う。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。この為この地での生活は過酷を極め、移住した藩士の中には飢えと寒さで命を落とすものも少なくなかったと言う。 その後、斗南藩は明治4年(1871年)の廃藩置県で斗南県となり、弘前県を経て青森県に編入された。また、一部たる二戸郡は岩手県に編入された。明治5年(1872年)には旧斗南藩少参事、廣澤安任らによりわが国最初の民間洋式牧場が谷地頭(三沢)に開設される。後、容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。(ウィキペディア・フリー百科事典より)

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静かな小川原湖

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JAおいらせ野菜選果場裏から広々とした畑の中を小川原湖に向かいます。この地は土が豊かで畑は日本一の生産を誇るゴボウ・人参・長芋などの根菜類です。  静かな小川原湖畔を進み湖水浴場に到着。八甲田に沈む夕日がきれいなところで、変に観光地化されていないのがよい。カヌーが静かな湖面を進んでいた。小川原湖畔キャンプ場も隣接し、アウトドアに最適な場所なのだが自転車ツーリングでテントを張るだけでも2,100円。これでは簡単にキャンプもできない。すばらしいロケーションなので何とかフリーサイトを設置してほしいのだが‥‥。

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寺山修司記念館

湖畔の高台には市営やすらぎ荘の温泉があります。市民は100円(私は八戸市民ですがそれでも150円です)で入浴できますし休憩室でのんびり出来ます。そこを横目に市民の森を巡って小田内沼の畔を通って寺山修司記念館に向かった。寺山修司は詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家など多才な人です。演劇実験室・天井桟敷の主宰でも知られています。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」とかえすのが常でした。「山羊にひかれ〜て」、「時には母のない子のよ〜に」の作詞は有名ですが、特に私が若い頃に好んで歌ったフォークルの「野に咲く花の名前は知らな〜い(戦争は知らない)」が修司の作詞と知ったのはこの記念館に来てからでした。タクシーから一人の若い女性が降り立ちました‥‥修司が亡くなってからもう25年、依然として人気があります。しかし残念ながらここは三沢市内から遠すぎます。この記念館は修司が子供の頃に遊んだ三沢駅前に作るべきでした。やはり寺山修司の心の底には基地の街三沢があり、そして母と暮らした古間木にあると思います。駅前にあった寺山食堂を寺山風に再現し、その中にこの記念館を作ったらもっともっと気軽に訪れる人が多くなったでしょう。修司が遊んだ墓地や不動神社、薬師神社、古間木小学校などを巡る散策路を作ってもよかったと思います‥‥古牧温泉も近いし岡本太郎の公園もあります。マルチ才能の寺山修司にはごちゃごちゃした古間木のほうがよく似合う。どうも市民の森の自然の中には似合いません。

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市営放牧場

歴史民族資料館の向かいにある市営放牧場の牛を見ながら自転車道を進む。この自転車道は小川原湖畔から三沢市内まで8`であり良く整備されています。稲穂が垂れる田んぼの中の道を進みます。秋真っ盛りで萩の花も満開でした。

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満開の萩の花

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豊かな実りです(淋代平)

自転車道の途中に「県立三沢航空科学館」があり、休日でもあり大いに賑わっていました。ここには大人でも科学を楽しめるコーナーがいっぱいあります。フライトシュミレーション、無重力や飛行機が飛ぶ原理も体感できます。ミス・ビードル号の実物大復元機や国産初の旅客機YS-11の実機も展示されていて搭乗もできます。「大空広場」には私の好きな飛行機がいっぱい。もともと三沢は飛行機に縁がある地なのです。新発見‥‥3F展望台には無料で上れるので三沢基地内の飛行機の離着陸を見ることができます。ただし基地内の撮影は禁止です。疲れたときには弁当持参でのんびり来ることにします。

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F−1戦闘機

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-2練習機 ブルーインパルスの機体

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ミス・ビードル号の復元機

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YS-11 木村秀政博士(五戸出身)が設計しました

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県立三沢航空科学館

8時間の自転車のんびり旅で八戸に戻ってきました。走行距離は84`でした。家内は膝が痛いと言っています‥‥(^_^;)。  それにしても今日のコースには見るべきところが沢山ありました。漁港・冒険・自然・歴史・文学・近代科学・農業畜産‥‥三沢市はすごい観光資源を持っていると思います。温泉もいっぱいあるし、三沢市民はもっともっと誇りをもっていいと思います。

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米軍基地 フェンスの向こうはアメリカです

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